Twitter アカウントを知られていても居心地の悪くならないカルチャーのところで働くということ

よく会社の人にアカウントバレしたくないみたいな話があがったりするんだけど、アカウントがバレていようがバレていまいが個人の私生活に干渉しないのが大人で、多少話題にしたりすることはあっても、他人の趣味や関心事に対してマウントを取ったりはしないもので、そういうことをする人間、というのは、おそらく業務でもそういう態度を取る。そういうところで働いてもしんどいだけ、アカウントバレを恐れなければいけない状態というのはある種のサインだと思う。むしろ Twitter アカウントを知られることにデメリットがない、知られていても居心地の悪くならないカルチャーのあるところにいたほうがいい。

現職ではTwitterを知られていても居心地が悪くなったりはしてないし、互いに距離感を保ってうまくやっている。雑談がまったくないわけではないし、仕事は仕事、プライベートはプライベートで、切り分けが妥当にできている。それは大人としては当たり前といえば当たり前なんだけど、なんか当たり前じゃない会社があるらしい。最初に入った会社がそうだったんだけど。

同人活動してたりすると結構そういうところでセンシティブに振る舞うのが当たり前になりがちなんだけど、知られてるほうが休み取りやすかったりするし、知られても問題ないところいくのがいいですよ、という感じ。

恋や愛を超えていく

ユーリ!on ICE は男男関係の作品なんだけど、ブロマンスよりは明らかにBL寄りなんだけど個人的にはあんまりBLっぽくないなと思っていて、それって二人をつないでいるものがフィギュアスケートだからなんだけど、じゃあフィギュアスケートによって結ばれていると何がどうBLっぽくないのか?

アスリートにとっての幸福はパートナーと共にあることではなくて、アスリートの頂点にいることなんだけど、それはいつも孤独なんだよね。だからアスリートと恋愛ものっていうのはめちゃくちゃ食い合わせが悪い。銀盤カレイドスコープでは、1巻2巻こそ幽霊の少年とのロマンスがあったものの、自分と並び立つことができるレベルの男子フィギュアスケート選手が身近にはいないし、そもそも男子と女子とでは同じ地平を目指すことができない、というところもあって、恋愛要素を排してアスリートとしての頂点を目指す物語にシフトしていく。

今作でタズサとダブルヒロインになっているリア・ジュイティエフはタズサが唯一自身と同じ地平に立つことができる存在として認めていたが、タズサがリアを超えて頂点に立つことを目指したために決別する。五輪ではタズサはリアに大敗し、リアはタズサを見限って男子フィギュアスケートへの転向を表明……するも、同年の世界選手権でタズサがリアを破って優勝。こうしてふたりは互いに唯一無二の好敵手になり……というところで結末を迎えている。男子とは無理でも同じ女子となら同じ地平を目指すことができるけど、どうあがいたってたった一人の頂点の座を奪い合う関係にしかなれない、けれども、その奪い合う関係は確かに二人だけの世界でもある。もちろんこれはこれで百合だとは思うんだけど、ユーリ!はそこをもうちょっと踏み込んでいて、かなり大胆な作品だと思ったんだよね。

ユーリ! on ICE では勇利とヴィクトルは最終的に互いに競い合う相手でもあり、師弟でもある、という関係になる。これはとても欲張りな関係だよね。銀盤カレイドスコープは前述のとおり互いにライバルになったところで終わるけれども、別にライバル同士が師弟になってはいけないという決まりはないし、ライバル以外の他の関係とライバル関係を両立しちゃいけないことはない。両立しようとすると軸がブレて純度が下がる、というのはある意味では正しいけれども、両立を目指すくらいの欲張りさを見せるくらいの感情の起伏を描くというのもまた正しく、ユーリ!ではそうなっている。

逆に恋愛ものの視点からいうと、恋や愛はアスリートとしての幸福を上書きしてしまうので、アスリートとして成功しなくても、わたしはあなたを認めるよ、という結末を迎えることができてしまう。何者でもなくとも、わたしはあなたを受け入れる……でもそういう結末のほうがむしろ「ごくありふれた得難い幸せ」だったりはする。

どっちもってずるくない? でもずるいんだけど、恋や愛を超えてアスリートとしての頂点を目指すと、単に恋や愛ではない、べつの「絆み」が生まれてくる。


ちょっと話が変わって、きららフォワードで球詠という野球漫画が連載されている。きららなので女の子と女の子の関係性を書いた作品が多いんだけど、球詠も例にもれず、女子野球ということで登場人物みんな女の子、という作品になっている。

この作品は百合漫画ですか? 百合漫画です。ただ、なんか百合なんだけど単に百合じゃないんだよな。これどちらかというと少年誌の男子のスポーツ漫画にBLを見出すみたいな感じがある。そう、百合なんだけどブロマンスっぽい。

カップルが何組かあって、エースの詠深ちゃんとバッテリーを組む女房役の珠姫……そう、野球って捕手のこと女房って呼ぶんだよな、そういうところがある。バッテリーは男女の恋とか愛を超えた関係になる、なりやすい、だから前バッテリーを組んでいた投手に嫉妬したりするのもバッテリーあるあるなんだけど、これってブロマンスの定番なんだよな。まあ野球の定番がそのままブロマンスの定番になってる、というだけなんだけど、女子野球でやったらそれは百合になるのか、というと、女の子同士になってもそれはブロマンスだよな、と感じている。

似たようなところで二遊間コンビというのがあって、綾ちゃんと菫ちゃんもまあカップルと言えなくはないんだけど、この二人の間こそ百合っぽさがない。二遊間を単なるコンビから一歩踏み込んだ関係にするには、むしろ決定的な差が必要だったりするんだよな。綾ちゃんと菫ちゃんは好対照な二人だけど実力的には近しくて、互いのプレーイングについてもよく知っていて、という関係なので、なんとなくそれ以上にならなさがある。

一番百合みを出しているのが選手同士ではなく、マネージャーにして司令塔の芳乃ちゃんと、チーム屈指の巧打者の希ちゃんの二人で、この二人は矢印が双方向ではなくて互いに一方通行なんだよね。芳乃ちゃんはあくまで選手としてみんなのことが好きで、でも希ちゃんにとっては芳乃ちゃんは特別になっている。これが百合っぽい。未完成の関係、不対照な関係、不均衡な関係に百合が生まれる。百合は完全に向かう不完全なはじまり。選手同士じゃなければ恋や愛になりうる。

球詠にはライバル関係の百合がいまのところない。夏大会で戦った選手が今後どういう関係を築いていくのかってところだとは思うんだけど、けっこう多様な人間関係を描いている作品だと思うのでたぶん描いてくれるんじゃないかなと期待している。


スポーツものだと人間関係がスポーツを通じたものになるので、単に男男とか女女ではいられなくなる。そういう異分子がありつつも、恋や愛をなげうってアスリートとしての頂点を目指すのか、アスリートとしての幸福をも達成するような恋や愛を超越した関係に辿り着くのか、アスリートとしての幸福と切り離された恋や愛の成就が果たされるのか、どれがあってもいいし、どれがいいとも言えないし、女子野球だから百合のスポーツものみたいにひとくくりにすることはできない。

球詠読んでくれ!

ハチナイの河北はレズ。

鍵つきアカウントの運用を限定してから気付いたことの踏み込んだ話

aoitaku.hatenablog.com

だけで終わっても仕方がないので、もうちょっと踏み込んだ話をする。

当たり前のことなんだけど、不特定多数に見られている可能性を意識しないといけない状況と、特定少数にだけ見られていることがわかっている状況は異なる。

なので、前者の空間は誰か他人に向けたメッセージが発せられることが多いし、後者の空間は、個人的な気持ちの話か、身内向けの私信が多くなる。

後者の空間であっても身内向けの私信については明らかにメッセージなので読まれることを意識してるんだけど、個人的な気持ちの話はむしろ人に読まれないことを前提にして書いている。読まれても別に構わない話か、読まれてもリアクションをもらうつもりのない話。身内からのリアクションは、まああっても困らないけど、なくても困らない、どちらでもいい、というような。

いちおう鍵つきアカウントは持っていて、主に私信をカジュアルに使うためだけに運用しているんだけど、基本的にはほとんど使っていない。使わなくなって、「表」は明らかに他人に読まれることを意識したアカウントの使い方になった。最初は窮屈さを感じていたけど、よくよく考えると、公開アカウントが発したツイートというのはインターネットに向けて発信されるユーザージェネレーテッドコンテンツなのだから、ノンレギュレーションで自由にやってよい空間でないのが当たり前だった。

もちろんノンレギュレーションで自由にやって許される人もいるんだけど、それはもうその人自身がそういうコンテンツとしての地位を確立しているからというだけで、基本的に公開された空間にあるものは、大なり小なりコンテンツ性を持っている。持ってしまう。

Twitter はコミュニケーションツールとか言われるんだけど、もともとこれはミニブログマイクロブログであって、チャットツールではない。リプライはコメントだし引用リツイートトラックバック、フォローはRSSサブスクリプションである。少なくとも機能上は。

Twitter がブログである以上は、ツイートはブログのサブスクライバーに向けて発せられる。別にどうでもいいことを書けばいいんだけど、というよりはむしろ逆で、どうでもよくないことを書くことにはそれなりに配慮が必要で、負の価値を生じさせないようにしていくことになる。そう、負の価値だ。正の価値を生むことまでは別に必要ではない。負の価値を生じさせないことが大事なんだ、ということに気付いてきた。

どうでもよくないことは、どうでもよくないことをしっかり書くために、ミニブログマイクロブログでない、もともとのブログ、つまりここに書くようにしている。こうするようになって3年くらいになる。書くことをコントロールできるようになったと思う。

鍵アカウントはどうでもよくないことをだらっと書けてしまうがゆえに、配慮にかけた発信をすることがあるし、実際たくさんあった。この3年間でいわゆるソーシャル疲れを感じる機会は、以前と比べてもぐっと減った。一方で Twitter に書くこともそんなに多くないな、となってきた。ミニブログマイクロブログは本質的に些末なことを取り扱うツールだから、別に書いても書かなくても何かが変わったりはしない。

どうでもよくないことはブログに書く。これからもそうしてやっていく。

ここ数年やったことの話

あんまり業務の話しないようにしてるんだけど(業務のあおたくは日記のあおたくではないので)、まあでもたまに振り返って何やってんのくらいのことは書いてもいいのかもしれないなあ、と思ったので書く。

現職に至るまでの過程は

aoitaku.hatenablog.com

この記事から7日分に渡ってつづってある。たまに読み返してあの頃はこうだったな、と振り返ってみたりする。さすがにもう十数年も経っていて、思い出せないことも増えてきている。ところで思い出せないことが増えるのは老化で認知能力が衰えたからではなく、蓄積された情報量が多すぎて処理しきれなくなっているから……って言ったらみんな信じてくれるかな。本当のところは知らない。まあアクセス頻度の少ない記憶は凍結されて思い出しにくくなるみたいな仕組みはあるかもしれない。そのくせ嫌なことはフラッシュバックですぐ思い出すんだよな。まあこれ嫌なことは危機回避のために封印しないのが生存戦略っぽいからわかるんだけど。

めっちゃ話がずれた。現職……というか現職の前身となった会社に入ったのが2017年で、三年半在籍して、7月から会社が統合されて現職、という経緯なんだけど、便宜上、前身を含めて現職とさせてもらう。

現職ではウェブアプリケーションプログラマとして入社したので、主にウェブアプリケーションのコードを書いた。少人数の開発会社ということもあってプロトタイピングして顧客からヒアリングし、ブラッシュアップして作るいわゆるプロトタイプモデルでの開発が多かったんだけど、そういう事情で境界線のないまま要件定義、設計もやっていた。

一番大きな仕事として、Brushup や Save Point のような社内向け制作管理ツールの開発をやった。

Excel、脱FTP、脱メール、というスローガンで開発が始まった。

多くの制作管理の現場では仕様書から設計図、課題管理表に至るまで、あらゆるものが Excel で表現される。Powepoint や Word を使うこともあるものの、これらで表現する類のものであっても、Excel が使われることも少なからずある。それ自体は別に悪いことではないんだけど、Excel には同期の上で問題があるとか、データとプレゼンテーションが密結合なのでデータだけを追いたいときに自由が効かないとか、デメリットもある。

続く FTP とメールだが、Excel を使うと、自然と FTP やメールと向き合わざるを得ない。Excel の更新はメールをもって通知される。成果物は Excel に添付できないので、FTP を使って共有される。これが 2010 年代の制作現場の現実として横たわっていたし、おそらく今も横たわっている現場が少なくないと思う。

開発会社では課題管理票を顧客向けに Excel なり Spreadsheet を使って、開発部内では Issue Tracker を使う、という二段構成にしているところがあって、顧客に Issue Tracker を使わせるのはむずかしい(顧客がバグと主張するものが必ずしもコードに起因する不具合とは限らない)ので、顧客の声を部内で揉んだ上で、コードに紐付いた課題に落とし込む過程で Issue Tracker を使う、としたほうがよかったりする。

制作会社は課題管理に Issue Tracker を使わない。これはそもそも成果物がトラッキングされていないからだ。そこで成果物自体をトラッキングして課題管理するツールが必要だよね、という発想になるんだけど、そういうときに何を使うかって話になって出てくるのが、前述の Brushup や Save Point のようなツールである。

ぼくはこのプロジェクトではバックエンドもインフラもほとんど触ってなくて、フロントエンドをメインで担当した。当時としてはわりと先進的で、TypeScript と Vue.js を採用した。

ぼくが SPA フレームワークを使ってコードを書いたのはこれがはじめてではなくて、実は2016年にも Aurelia.js で WebView 上で SPA 動かすタイプのスマートフォンアプリを作ったりしている。Aurelia.js はそれ以来めっきり触っていないというか、Vue.js を使ってみて Vue.js でいいじゃん、となってしまった。Aurelia.js は Shadow DOM の取り扱いがけっこう大変だったというか、作っていたものの都合でコードや CSS をインジェクションする必要に迫られたんだけど、そのへんをうまく実現するためにめちゃくちゃ泥臭いコードを書く必要があって、まあそれ以外は Aurelia.js も悪くなかったけど、今やるなら React か Vue.js という感じになる。もう忘れちゃったしな。

この製作管理ツール、開発は一旦終了していて、今も稼働はしているっぽい。ただ、現場で Excel を完全に捨てることはできてないと思う。まあ、完全に捨てる必要はない。課題管理を Excel から脱却できればいい。メールは……これもまあ必要なシチュエーションはある。FTP は殺せたかな、どうかな……たぶん巨大データのやりとりには依然として FTP が使われてる、んじゃないかなあと思う。

仕事のフローを大きく改革することはむずかしい。まあむずかしいなりに、それでもやっていきたいんだよなと思う。

今もまた脱 Excel をかかげたクラウドの管理ツールを開発している。現場では Excel を捨てきれないし、数多の現場の仕事のフローの差異をクラウドで吸収することはできないので、クラウドのデータを Excel 形式で吐き出すマシーンを作っている。これが理想と現実をすり合わせた着地点だよな、と思いながら。

AIが言語を変える

これはただの妄想なんだけど、DeepL を見ながら「DeepL の翻訳が妥当かどうか検証するには DeepL なしで翻訳できる必要があるから結局人間の翻訳作業はなくならないよね」ということを思いつつも、とはいえ巷には「今日の DeepL の翻訳でこれだけの精度があるんだからそのうちに翻訳は人力でやらなくてよくなる」という意見がかなり多く見受けられ、実際に DeepL よりももっと高精度な翻訳が登場したとて、その翻訳の妥当性を検証しないままこれで OK!となる時代が来るとどうなるか、というと、その頃には AI の翻訳と人間の使う言葉が接近しているでしょう、ということを思いついた。

AI は人間が実際に使っている言葉を学習して翻訳する。その AI の翻訳結果を大多数の人間が使うようになれば、AI の翻訳が正しい世界になる。AI が誤った翻訳をしたまま気付かずにその言葉を使えば、それが新語や新用法として定着していく。

すぐにはそうならずとも、AI の翻訳を利用するケースが実際に増えていけば、AI が学習する実世界の言葉に AI が発した言葉が含まれるようになり、次第に互いの言葉が接近していくことになる。

言語はもともと正解のないファジィな概念なので、そういうことが起きるかもしれない。数十年先か、百年先かはわからないけれど。

言語のようなプリミティブなものを AI 任せにする時代が来たとして、そのようにして AI が人間の思考を代替するようになっていくのなら、我々はどこまでを自身の判断とするべきなんだろうな、と思ったりもする。

こちらからは以上です。

棚に上げる

自分のことを棚に上げておいて批判することの是非……というか「批判の反論として自分のことを棚に上げておいて」という趣旨でいわゆる「おまいう」という便利なフレーズが使われたりするんだけど、ちょっとここで冷静になって考えてみたい。

「おまいう」を封殺すると、批判するには少なくとも同じ論点について批判されないだけの立場が必要ということになる。

異なる論点で「おまいう」が使われるのはわたしは望ましくないと考えているのでここでは置いておく。ただ、よく見かけるよねと思う。

さて、そうすると批判に権利が必要になってしまうわけだけど、そうなると批判は強者の特権になってしまわないか。批判されえない立場というのはえてして強者である。弱者こそ批判の声を上げられるべきで、弱者の批判を封殺するために「おまいう」を使うべきではない。

OK、では批判されうる立場であっても弱者ならば批判してもよいことにしよう。

では、弱者と強者の線引はどうするか。

人間はある面では強者であり、ある面では弱者である。著名人は一般人よりも強い発言力を持つが、その著名人とて100万人の一般人の結束の前にはまったくの無力であることもある。

ボーダー上にいる立場の人間をどう扱うかということもむずかしい。あるときは強者として、あるときは弱者として振る舞うようなことができる。これはバグだと思う。

結局、すべての人間に批判を認めるほうが整合性が取れる。納得しづらさは残る。

棚に上げることの何が悪いのか、ということに立ち返って考える。

人に言う前にまず自分から直せや、ということである。自己批判のない他社批判は虚しい。虚しいが、虚しい批判をすることは許容される。そのような批判を受け止める必要がまったくないわけではない。ただ、受け止めずに棚上げを批判するよりは、受け止めた上で棚上げ批判者に同様の改善を求めるほうがいい。それで批判を受け入れないような棚上げ批判者は徹底的に批判されてよい。あらゆる弱者が己を棚上げして批判してよい。

批判を受け入れても改善がむずかしいことはある。人間は不完全である。寛容でありたい。