RPGのラスボスは弱くしろ

RPGといってもいろいろあるので難しいところだが、この国においてはRPGは「レベルを上げればクリアできるゲーム」という方針で発展してきたジャンルで、この方針のRPGについてはラスボスは弱くするべきである。

弱いというのは手応えがないということではなくて、勝てるようにしろということである。

初見殺しの是非などはとりあえず置いておく。ラスボス戦前でセーブができるなら初見殺しでもなんでもすればよい。

たとえばサガフロ2のラスボスは無準備ではクリアできないほど強いが、準備をすれば確殺できる程度の強さである。最終形態に至っては、充分にリソースを温存できていれば消化試合になる。

しかしそれでよい。

ラスボス戦というのは演出である。プレイヤーが強くなった。強いラスボスが最終形態に至ってかえって弱くなっていく。それでいいのである。後少しで勝てるとプレイヤーが思えることが重要である。逆に、俗に「発狂」と呼ばれるモードになるボスはそれはそれで味があるが、その場合であっても、もうこのラスボスには後がないんだ、とプレイヤーが思えるならば正しい演出である。

ラスボス戦になってはじめての要素を盛り込むことは基本的には避けるべきである。同じ要素を使って別のゲームに成立させることは許容されるが、異なる要素を盛り込んで別のゲームにするのはただの騙し討ちである。そういうのは難しいのではなく単に理不尽にすぎない。

ラスボス戦はゲームの集大成である。プレイヤーがこれまでに学習したことを発揮する最後の場面である。プレイヤーが学習したことを発揮し、それが正しければ、ラスボスにちゃんと効くべきである。

たとえば、ラスボスには弱点が設定されないことが多いが、妥当ではない。弱点は設定してよい。それまでに散々弱点をつくと有利である、ということをやってきたのに、ラスボス戦で「弱点禁止です」となるのでは、プレイヤーから「楽しみ」を取り上げるようなものである。

しかしながら、プレイヤーはこれまでに学習した「楽しみ」をラスボス戦でも味わいたいが、同じことを繰り返すだけでは「楽しみ」を低減させてしまう。飽きさせない工夫は必要になる。

弱点を固定しないのはひとつのアイデアである。状態によって異なる弱点を持つようにしたり、一度弱点をつかれたら弱点が他の属性に切り替わったりという方法で、プレイヤーの行動を画一化させないように工夫することはできる。

ラスボス戦でだけ有効な属性を用意するというアイデアを取り入れた作品もある。これは演出的にも面白い。ドラマティックに仕上がる。ラスボス以外には弱点にならないが、それでよい。ラスボス戦でだけ輝くほうが演出的に旨味がある。

結果的にプレイヤーが「ラスボスぬるかった」という感想を抱いてもそれは構わない。ラスボス戦でクリアできずに投げ出すよりはよほどいい。単に面倒なだけのラスボス戦をもうけてプレイヤーに敬遠されるよりも、プレイヤーが「ラスボスが弱くなるほどキャラクターを育てた実感」を得るほうが重要である。

ラストダンジョンも同様であり、エンカウント率を上げて敵をたくさん出したりするような難易度のエスカレーションをすべきではない。最後のアトラクションなので、とにかく楽しいギミックをたくさん配置し、隠し通路を発見させ隠しアイテムを発見させたくさんの報酬を与え、ラスボス戦のための充分な準備をさせる。一番気持ちのよいダンジョンにするべきである。

一番気持ちのよいダンジョンを踏破し、一番気持ちのよい戦闘をクリアしたら、エンディングが待っている。これでよい。難しい戦闘は必ずしも気持ちよくはない。気持ちよい戦闘は必ずしもプレイヤーにとって簡単なわけではない。適度に充実感があって気持ちよい戦闘というのは実現可能だ。そして、もし両立を実現できないのなら、割り切って気持ちよさに振るべきであろう。ゲームをプレイするのは気持ちよくなりたいからなのだから。

こちらからは以上です。

気付いたら9月になってた

やってたことはけっこうあるので書くべきことはそこそこある。

なにしてたのかというとRPGツクールMZを買った。

で、このようなものを作っていた。

game.nicovideo.jp

まだぜんぜん作っている途中で、今はチュートリアルができるだけという感じになっている。一本道だし、ギミックも特にない。

何を作ろうとしているかというと、横スクロールの探索ゲームである。横スクロールにしようと思ったのは、そのほうがアセットを用意するのが楽だったからなんだけど、足下が見えるタイプの横スクロールのアセットを作ったことがなく、かなり右往左往してしまった。8月いっぱいの時点でもうちょっと作り込みをする予定だったんだけど。

実のところプリセットの素材を使ったほうが楽は楽なんだけど、足りない素材を補うときのコストがかかる。プリセットの素材を使うときは、プリセットの素材でできることベースにして、やりたいことはある程度は妥協することになる。今回は、たとえばものを積み重ねて足場にするとか、ものが乗ってるときだけ開くドアとか、そういうギミックをやろうとしたら横スクロールで2D物理を使うのが一番楽で、素材を用意するのも自前でなんとかできるレベル、という判断だった。といってもグラフィックは100%ゆえっちが描いているので口を出しただけではあるんだけど、まあでもこの品質だったら自分でも書き足したり書き起こしたりできると思っていて、そうであることが拡張しやすさを損ねないと考えている。

マップを歩き回ってポイントポイントを調べてフラグを立てていく、というだけのゲームなら、アセットがどうあれ、横スクロールでも見下ろしでもなんでも作るのは作れる。そこに何味を足していくのかというところで、今回はアクションパズルだっただから横スクロールになった。ポイントアンドクリックならADV/ノベル風にしてもいいと思うし、見下ろしなら別のギミックが使えるだろう。

公開分には入ってないけどすでに実装されている要素として、ものを持ち上げる、投げる、操作キャラクターを切り替える、などのギミックがある。組み合わせたらそれなりに仕掛けが作れると思っている。

ぼんやりとしたストーリーラインも決まっているので、序盤をもうちょっと遊べるようにしたら次は後ろのほうから作っていくのをやるつもりでいる。後ろのほう、というのがフルのギミックを駆使したパズルを作っていい部分なので、ここを先に作るのがよろしい。ここよりもむずかしいパートを、ここよりも前に作ってはいけない、というふうにすることで、確実にクリアできるようにする、かつ、適切にむずかしさやゲームの複雑さをエスカレーションさせることができる。

それとは別に今月に入ってからはふつうのRPGをちゃんと作ったことないから作りたいなと思っていて、まあこっちものんびり作っている。練習作なのでクオリティとかはあんまり気にせずに作ろうと思ったんだけど、作り始めると細かいところに手を入れがちで、この習性をなんとかしないとゲームなんか作れねーな!といういつもの感想になった。

こちらからは以上です。

フルスタックエンジニア

自分はあくまでフロントエンドプログラマであって、バックエンドアプリケーションもそれなりに書けるし、DB設計も平均よりちょい下くらいには出来るつもりでいるんだけど、インフラ構築はひとりではようやらんわという感じだし、フルスタックになりきれてない、微妙に周辺技術や知識をかじっている程度の、フロントエンドプログラマである、という前提で話をする。

フルスタックエンジニア、という言葉が示す範囲がでかすぎてそんな人間はもはやいないと思わないでもないんだけど、昨今のWebアプリケーションの話をするなら、Webアプリケーションを一人で組めるくらいのフルスタックエンジニアは普通にいる。AWSにIaCで環境つくってバックエンドアプリケーションとフロントエンドアプリケーションの設計からコードまでを一手に担うようなエンジニアは別段不思議ではない。Webアプリケーションはもともとバックエンドのフレームワークに全部載せだったのが、そのうちにフロントが分離して、バックエンドはAPIミドルウェアの繋ぎ込みを担うようになり、そこからバックエンドがAPIだけ、DBだけ、というふうにアプリケーションとミドルウェアが分離していくようになっていったんだけど、そうするともともと全部にそれなりに通じていた人間にとっては周辺技術が地続きなので、そのまま業務レベルで関わっていくことになり、フルスタックでできるようになった、そんな人が、かつて Rails 書いてて今 Firebase と React やってます、みたいなところには割といるんじゃないかと思う。

で、じゃあそういう人を一人連れてきたらウェブサービスが一人で完成するかというと全然そんなことはない。もちろん規模にもよって、小さなものだったら作れる。大きなサービスを一人でやるのは無理。人間が一人で大きなものを作るには時間的な制約がきつすぎる。

フルスタックエンジニアがどうして必要なのかというと一人でなんでも任せられる人材がほしいから、ということなんだけど、これはつまるところそこに複数のスペシャリストを入れるだけの余裕がないか、あるいは真に必要な人材のスキルセットを把握できていないかのどちらかだと思う。

巷で求められるようなフルスタックエンジニアは、先発エースもスタメンマスクも代打も代走もリリーフも守備要員もすべてこなせる監督のような人材で、基本的にはその広い分野に精通した知見に基づく全体を俯瞰する能力こそが重宝されるんだけど、監督を雇うのに現役エンジニア相当のスキルを付属させるのはオーバースペックとしか言いようがない。別にピッチャー兼任できなくてもいいし打率が低くてもホームランが打てなくてもいいじゃんという。せいぜいが優秀なキャッチャーでいいでしょ。でもフルスタックエンジニアを雇いたい人は、たいていエースで四番みたいなスター選手のことを思い浮かべている。そいつがキャッチャーをやるのは無理だし、なんなら監督はもっと無理ですよ。

もしWebアプリケーションを開発したいってなったときにフルスタックエンジニアを一人入れてそいつに全部任せようって思ってるんだったら、並のフロントエンドエンジニアと並のバックエンドエンジニアを雇うほうがいい場合のほうが多い。

まあその判断をするために広範な経験を持ったスーパーエンジニアがいてほしいということは、まあまああったりはして、結果的にフルスタックエンジニアが必要だった、ということにはなったりするんだけども。

八月のシンデレラナインキャラクター短評その1

有原翼

数々の女子野球選手の心を折ってきた野球星人。しかも当人は覚えてない。野球のことしか頭にないのか、チームメイト以外の他人にはあまり興味がない模様。でもせめてりょうちゃんのことくらいは覚えててあげようよ。 能力はオールラウンダー型。才能、スキルにも恵まれており、全属性にまんべんなく強キャラが存在している。どの学校にいってもスタメンに一人は翼がいるんじゃないかな。配布URがある。URのチュートリアル用なんだけど性能はちゃんとURなので強い。ただレベル上げるだけでも全ステ4000近くまで上がるし、ミートは4600にまでなる。更に配布でもう一枚手に入るので限界突破もできる。

河北智恵

作中では最大の成長を見せる初心者。シナリオ中では本当に初心者?っていうプレーをたくさん見せる。翼の隣に並び立つことしか考えてないので自分がどれくらい成長してるのか実感がないんやろなあ。 URが実装された。チーム全体にバフをかける才能を持つ上、ベンチスキル枠を一つ拡大したり、自身の別カードとメモリアルリンクすることでチーム全体にバフをかけるスキルを追加でつけられる。ズルでは? 素ステでオール4200前後、信頼度で4200越えができるので凸不要。無課金者にやさしい(課金せずに手に入るとはいってない)

野崎夕姫

部活結成組。シナリオ中では河北が順調に成長するのと対照的に、野崎はなかなかスタメンにも入れないし、2年春の界皇との合同練習でもベンチから応援する姿が描かれる。それでも徐々に片鱗を見せはじめており、苦悩を抱えながらも成長するハチナイもうひとりの主人公という扱いを受けている。 まだURが出てないし、4年目の夏を迎えたというのに水着すらないが、野手では素でパワー4000超えのカードが多く、恒常SSRにバフ込みで170km越えの豪速球を投げるカードがあり、存在感は大きい。

鈴木和香

すずわか。部活結成組。シナリオ中はちょっと地味な扱いというか、参謀役としてはよく描かれるものの、試合中に選手としての描写があんまり多くなく、まあでもハチナイキャッチャー多すぎるからしょうがないですね。龍ちゃんが認めるほどの分析能力を持つのは大したもんやと思うわ。 投手の力を引き出すことに突出した才能、スキルを持つカードが多く、SSR綿密な作戦なんかはとりあえずスタメンマスクにしとけばええんちゃう?ってくらい強い。 まだURは未実装ながら、属性の関係で先にURが実装された椎名よりこっちを使う場面もたくさんあるんじゃないかなと思う。

東雲龍

りょうちゃん。しのくも。野球星人に負けても心を折られずに一心不乱に野球を続けてる強メンタルの持ち主。試合中は頭に血が上りやすいのか精神的には未熟なところがあったが、春大会を通じてチームで勝つということを理解し、一回り成長した模様。誰彼構わず本質をついた辛辣な一言をおっしゃられるところは変わってない模様。お前翼より多くの選手の心を折ってるからな。 URは持ってないのでわからないんだけどSSRでも強キャラ揃い。シナリオでも屈指の実力者として描かれとるし、せやろな、という感じなんだけど、界皇とかいう絶対強者のせいで強キャラ感が薄なってない? 最近は翼へのライバル心はどっか行ってしまったのか、神宮寺とのライバル描写が目立つ。まあチーム内で競い合うようなポジションでもないしそうね。

なんか部員だけで35人もおるから一回に5人ずつやっても7回かかるんだけど5人で疲れたので今回はここまで。次回は翼、りょうちゃん以外の経験者組あたりかな。

ところで部活結成組なのにすずわかだけ音楽ユニットに参加できてないんですけどどうして……どうして……。りょうちゃんは部活結成組じゃないけどメインキャラだからわかる。部活結成組なのに音楽ユニットに加わってないすずわか……。

ってなったけどハチナイは野球ゲームだから音楽ユニットがあることがおかしいわね。

Twitter アカウントを知られていても居心地の悪くならないカルチャーのところで働くということ

よく会社の人にアカウントバレしたくないみたいな話があがったりするんだけど、アカウントがバレていようがバレていまいが個人の私生活に干渉しないのが大人で、多少話題にしたりすることはあっても、他人の趣味や関心事に対してマウントを取ったりはしないもので、そういうことをする人間、というのは、おそらく業務でもそういう態度を取る。そういうところで働いてもしんどいだけ、アカウントバレを恐れなければいけない状態というのはある種のサインだと思う。むしろ Twitter アカウントを知られることにデメリットがない、知られていても居心地の悪くならないカルチャーのあるところにいたほうがいい。

現職ではTwitterを知られていても居心地が悪くなったりはしてないし、互いに距離感を保ってうまくやっている。雑談がまったくないわけではないし、仕事は仕事、プライベートはプライベートで、切り分けが妥当にできている。それは大人としては当たり前といえば当たり前なんだけど、なんか当たり前じゃない会社があるらしい。最初に入った会社がそうだったんだけど。

同人活動してたりすると結構そういうところでセンシティブに振る舞うのが当たり前になりがちなんだけど、知られてるほうが休み取りやすかったりするし、知られても問題ないところいくのがいいですよ、という感じ。

恋や愛を超えていく

ユーリ!on ICE は男男関係の作品なんだけど、ブロマンスよりは明らかにBL寄りなんだけど個人的にはあんまりBLっぽくないなと思っていて、それって二人をつないでいるものがフィギュアスケートだからなんだけど、じゃあフィギュアスケートによって結ばれていると何がどうBLっぽくないのか?

アスリートにとっての幸福はパートナーと共にあることではなくて、アスリートの頂点にいることなんだけど、それはいつも孤独なんだよね。だからアスリートと恋愛ものっていうのはめちゃくちゃ食い合わせが悪い。銀盤カレイドスコープでは、1巻2巻こそ幽霊の少年とのロマンスがあったものの、自分と並び立つことができるレベルの男子フィギュアスケート選手が身近にはいないし、そもそも男子と女子とでは同じ地平を目指すことができない、というところもあって、恋愛要素を排してアスリートとしての頂点を目指す物語にシフトしていく。

今作でタズサとダブルヒロインになっているリア・ジュイティエフはタズサが唯一自身と同じ地平に立つことができる存在として認めていたが、タズサがリアを超えて頂点に立つことを目指したために決別する。五輪ではタズサはリアに大敗し、リアはタズサを見限って男子フィギュアスケートへの転向を表明……するも、同年の世界選手権でタズサがリアを破って優勝。こうしてふたりは互いに唯一無二の好敵手になり……というところで結末を迎えている。男子とは無理でも同じ女子となら同じ地平を目指すことができるけど、どうあがいたってたった一人の頂点の座を奪い合う関係にしかなれない、けれども、その奪い合う関係は確かに二人だけの世界でもある。もちろんこれはこれで百合だとは思うんだけど、ユーリ!はそこをもうちょっと踏み込んでいて、かなり大胆な作品だと思ったんだよね。

ユーリ! on ICE では勇利とヴィクトルは最終的に互いに競い合う相手でもあり、師弟でもある、という関係になる。これはとても欲張りな関係だよね。銀盤カレイドスコープは前述のとおり互いにライバルになったところで終わるけれども、別にライバル同士が師弟になってはいけないという決まりはないし、ライバル以外の他の関係とライバル関係を両立しちゃいけないことはない。両立しようとすると軸がブレて純度が下がる、というのはある意味では正しいけれども、両立を目指すくらいの欲張りさを見せるくらいの感情の起伏を描くというのもまた正しく、ユーリ!ではそうなっている。

逆に恋愛ものの視点からいうと、恋や愛はアスリートとしての幸福を上書きしてしまうので、アスリートとして成功しなくても、わたしはあなたを認めるよ、という結末を迎えることができてしまう。何者でもなくとも、わたしはあなたを受け入れる……でもそういう結末のほうがむしろ「ごくありふれた得難い幸せ」だったりはする。

どっちもってずるくない? でもずるいんだけど、恋や愛を超えてアスリートとしての頂点を目指すと、単に恋や愛ではない、べつの「絆み」が生まれてくる。


ちょっと話が変わって、きららフォワードで球詠という野球漫画が連載されている。きららなので女の子と女の子の関係性を書いた作品が多いんだけど、球詠も例にもれず、女子野球ということで登場人物みんな女の子、という作品になっている。

この作品は百合漫画ですか? 百合漫画です。ただ、なんか百合なんだけど単に百合じゃないんだよな。これどちらかというと少年誌の男子のスポーツ漫画にBLを見出すみたいな感じがある。そう、百合なんだけどブロマンスっぽい。

カップルが何組かあって、エースの詠深ちゃんとバッテリーを組む女房役の珠姫……そう、野球って捕手のこと女房って呼ぶんだよな、そういうところがある。バッテリーは男女の恋とか愛を超えた関係になる、なりやすい、だから前バッテリーを組んでいた投手に嫉妬したりするのもバッテリーあるあるなんだけど、これってブロマンスの定番なんだよな。まあ野球の定番がそのままブロマンスの定番になってる、というだけなんだけど、女子野球でやったらそれは百合になるのか、というと、女の子同士になってもそれはブロマンスだよな、と感じている。

似たようなところで二遊間コンビというのがあって、綾ちゃんと菫ちゃんもまあカップルと言えなくはないんだけど、この二人の間こそ百合っぽさがない。二遊間を単なるコンビから一歩踏み込んだ関係にするには、むしろ決定的な差が必要だったりするんだよな。綾ちゃんと菫ちゃんは好対照な二人だけど実力的には近しくて、互いのプレーイングについてもよく知っていて、という関係なので、なんとなくそれ以上にならなさがある。

一番百合みを出しているのが選手同士ではなく、マネージャーにして司令塔の芳乃ちゃんと、チーム屈指の巧打者の希ちゃんの二人で、この二人は矢印が双方向ではなくて互いに一方通行なんだよね。芳乃ちゃんはあくまで選手としてみんなのことが好きで、でも希ちゃんにとっては芳乃ちゃんは特別になっている。これが百合っぽい。未完成の関係、不対照な関係、不均衡な関係に百合が生まれる。百合は完全に向かう不完全なはじまり。選手同士じゃなければ恋や愛になりうる。

球詠にはライバル関係の百合がいまのところない。夏大会で戦った選手が今後どういう関係を築いていくのかってところだとは思うんだけど、けっこう多様な人間関係を描いている作品だと思うのでたぶん描いてくれるんじゃないかなと期待している。


スポーツものだと人間関係がスポーツを通じたものになるので、単に男男とか女女ではいられなくなる。そういう異分子がありつつも、恋や愛をなげうってアスリートとしての頂点を目指すのか、アスリートとしての幸福をも達成するような恋や愛を超越した関係に辿り着くのか、アスリートとしての幸福と切り離された恋や愛の成就が果たされるのか、どれがあってもいいし、どれがいいとも言えないし、女子野球だから百合のスポーツものみたいにひとくくりにすることはできない。

球詠読んでくれ!

ハチナイの河北はレズ。

鍵つきアカウントの運用を限定してから気付いたことの踏み込んだ話

aoitaku.hatenablog.com

だけで終わっても仕方がないので、もうちょっと踏み込んだ話をする。

当たり前のことなんだけど、不特定多数に見られている可能性を意識しないといけない状況と、特定少数にだけ見られていることがわかっている状況は異なる。

なので、前者の空間は誰か他人に向けたメッセージが発せられることが多いし、後者の空間は、個人的な気持ちの話か、身内向けの私信が多くなる。

後者の空間であっても身内向けの私信については明らかにメッセージなので読まれることを意識してるんだけど、個人的な気持ちの話はむしろ人に読まれないことを前提にして書いている。読まれても別に構わない話か、読まれてもリアクションをもらうつもりのない話。身内からのリアクションは、まああっても困らないけど、なくても困らない、どちらでもいい、というような。

いちおう鍵つきアカウントは持っていて、主に私信をカジュアルに使うためだけに運用しているんだけど、基本的にはほとんど使っていない。使わなくなって、「表」は明らかに他人に読まれることを意識したアカウントの使い方になった。最初は窮屈さを感じていたけど、よくよく考えると、公開アカウントが発したツイートというのはインターネットに向けて発信されるユーザージェネレーテッドコンテンツなのだから、ノンレギュレーションで自由にやってよい空間でないのが当たり前だった。

もちろんノンレギュレーションで自由にやって許される人もいるんだけど、それはもうその人自身がそういうコンテンツとしての地位を確立しているからというだけで、基本的に公開された空間にあるものは、大なり小なりコンテンツ性を持っている。持ってしまう。

Twitter はコミュニケーションツールとか言われるんだけど、もともとこれはミニブログマイクロブログであって、チャットツールではない。リプライはコメントだし引用リツイートトラックバック、フォローはRSSサブスクリプションである。少なくとも機能上は。

Twitter がブログである以上は、ツイートはブログのサブスクライバーに向けて発せられる。別にどうでもいいことを書けばいいんだけど、というよりはむしろ逆で、どうでもよくないことを書くことにはそれなりに配慮が必要で、負の価値を生じさせないようにしていくことになる。そう、負の価値だ。正の価値を生むことまでは別に必要ではない。負の価値を生じさせないことが大事なんだ、ということに気付いてきた。

どうでもよくないことは、どうでもよくないことをしっかり書くために、ミニブログマイクロブログでない、もともとのブログ、つまりここに書くようにしている。こうするようになって3年くらいになる。書くことをコントロールできるようになったと思う。

鍵アカウントはどうでもよくないことをだらっと書けてしまうがゆえに、配慮にかけた発信をすることがあるし、実際たくさんあった。この3年間でいわゆるソーシャル疲れを感じる機会は、以前と比べてもぐっと減った。一方で Twitter に書くこともそんなに多くないな、となってきた。ミニブログマイクロブログは本質的に些末なことを取り扱うツールだから、別に書いても書かなくても何かが変わったりはしない。

どうでもよくないことはブログに書く。これからもそうしてやっていく。