みんなそんなに言葉に意識を払ってはいない

ぼくはサピア=ウォーフの仮説を支持する立場で、言葉が思考のモデルになると考えているんだけど、そもそも人間はそんなに考えてものを喋ってはいない。 言葉にしてから自分の考えはこうであったと気付くこともままある。

無意識に言葉が口をついて出がちなので、普段から使う言葉の影響は避けられず、普段使う言葉の範囲に思考が寄りがちな気がする。実感としてそれはある。


考えをまとめるために一旦ノートに落とすみたいなのやる。頭の中にふわっと考えが浮かんでいる状態のそれは、指向性を持たず、順序を持たず、関連を持たない。言葉にすると指向性を持つ。ソートのキーが生まれるので順序を持つことができるようになるし、関連のキーが生まれるので記憶できるようになる。記憶自体は別に言葉に依存した情報ではない。たとえば「ここまで出かかってるんだけど」というのは、記憶の言語化に失敗しているのであって、思い出せてないわけではないように思う。


本題の「そんなに言葉に意識を払っていない」についてなんだけど、そういえば最近あんまり使われなくなってよかったなーと感じているもののひとつが「常識的に考えて」とかいうのを後置修飾で使うやつで、常識ってなんだよ、お前だけが知ってる常識か? お前の常識なんか知ったこっちゃねえよ、とずっと思っていたんだけど、結局ただの流行り言葉だったので、使われることがなくなったように思う(ひょっとしたら使ってる人いるのかもしれないんだけど、ぼくの観測範囲ではもう気にならなくなっている)。

で、「常識ってなんだよ、お前だけが知ってる常識か? お前の常識なんか知ったこっちゃねえよ」というやや強い言葉なんだけど、「常識的に考えて」って言ってた人ってほかの人と自分との間の考え方の違いとかまで考慮した上で「常識的に考えて」なんて言ってないと思っていて、それはそのはずで、自分の思考ルーチンがあるがままに帰結するものは当人にとって当たり前のことでしかなく、そこに疑問をはさむのはむずかしい。意識的に自分の言葉について考えないとできないことで、そうはいってもふだん使いの言葉にまで意識を割いてなんていられない。ふつう言葉は無意識に使われる。


うちの親は接続詞の使い方がおかしかったんだけど、ぼくが口が酸っぱくなるくらい「前の話肯定するのに『でも』っていうのやめよう?」って言ってきたからなのかなんなのか、そういえば最近そういうへんな接続詞の使い方しなくなったような気がする。いや、たまにあるのかもしれない。ぼくが気にしなくなっただけってことはある。

この接続詞の使い方おかしい話、わりとよくある。ぼくもときどき間違える。それは意識してないから間違えるんだけど、接続詞って意識して使うものではない。たいてい思考から自動化されて出てくる。なのでたまに間違える。人間の思考はそこまで厳密なものではない。最初に書いたけど指向性も順序も関連もないファジィなものなのだと思っている。


他人の言葉が耳に入ってくるとつられてその言葉を使ってしまうことがよくある。人間の思考は割り込みにとても弱い。言葉はそんなに意識して出てくるものではない。


壁ドンの意味が変わった件とか、言葉ってそういうもんですよ、「言葉は変わるものだから」ということではなくて、みんな言葉にそこまで意識払ってないですよ、ってことで、ぼく自身最近ちょっと言葉尻つかまえてどうこういいそうになること多いなーって気付いたので、自分に言い聞かせつつ。


ブログだと思考の割り込みがないので整理しやすい。
最近は公開するかどうか後回しにしてとりあえず下書きする、みたいなことをしている。書いてみると「そこまで書きたいことじゃないな」って気付くこともままある。


ブログだと思考の割り込みがない一方 Twitter は割とよく思考に割り込みが発生する。議論が発散するのは思考の指向性(ちょっと面白い)をコントロールしにくいからで、リアルタイムのやりとりでないほうが議論しやすいこともある。そういう意味では会議するなとかは割と分かる話。あらかじめ思考を形にしておけよということなんだけど。

さておき思考整理のために言葉を記している人間の思考に割り込むのはよくないので、Twitter でシーケンシャルに思考を垂れ流している最中の人に空中リプライを送るのは控えたほうがたぶんよい。それはそれとして、Twitter でやるな。ブログに書け。と、ぼく自身に言い聞かせていく。他人の思考整理に相乗りして Twitter に自分の考えを書くのはあんまり行儀がいいことではない、気がする。


特にオチはない。