人はみんなそれぞれ異なる「言葉の海」を持っている

ので、コミュニケーションがうまくいかない原因は、根本的にはこの「言葉の海」の差による。


ある言葉がどういうシチュエーションで使われるのか、特定のシチュエーションでよく使われる語は、その語自身がもともとフラットな語であったとしても、そのシチュエーションに引きずられたニュアンスを含むようになっていくように思う。共起表現にネガティブな語が頻出する語はネガティブな語として扱われやすい。

ぼく自身の体験では、フラットなつもりで「まかりとおる」という語を使ったら、かなりネガティブな語として受け止められたことがある。「通用する」をちょっとおおげさに言う程度の語だと思っているけれど、それは自分の「言葉の海」の話にすぎず、おおよそ否定的なシチュエーションで使われる語だから、否定的なニュアンスを持つと感じる人がいてもそれは不思議ではないかもしれない。

最近ちょっと話題になった「評価する」なんかも、単に「評価する」だけで「肯定的に評価する」というような意味を持つようになったんだけど、これも、ネガティブなシチュエーションでは単に評価というだけでは使わず、単に評価というだけで使うことが誤解なくポジティブに受け止められるという状況ができあがったからだろうと考えている。
しかしながら、この用法は年配の世代からはあまり受け入れられておらず、世代間で「言葉の海」に差が生じている。

もともと何らか属性を持っていた語が、フラットに使われた結果フラットになった、というものもある。たとえば「凄い」「凄まじい」などは好例で、「凄惨」という熟語は似た意味の語を重ねたもので、もともと「凄」は「惨」と同属性の語だったのだが、今では単にフラットに強調する語として、著しいなどと同様な意図で使われるようになっている。
一方「甚だしい」はあまり肯定的な文脈では使われにくいので、これは否定的なニュアンスを受け取ることのほうが多いだろう。
その「甚だしい」に近しい「ひどい」は単体では否定的な言葉だが、「ひどく感動する」のような文脈では、単に程度が大きいことを示すだけになる。これは元の語がネガティブなニュアンスを持っているから、人によってはネガティブに受け取ったりするのかもしれない。

はじめて未知の言葉に触れるとき、その言葉がどのような意味を持つかは、個々人がどのように推し量ることによって変わってくるだろう。字面から意味を読み解こうとする人もいれば、文脈からそうする人もいるだろう。あるいは読みから類推する人もいるかもしれない。人によって異なり、これといった決まったプロセスがあるわけではない。だから、言葉の海に差が生まれる。

また、言葉に対する意識の差というものもある。言葉の意味を雰囲気でなくその定義によって捉えようとする人は、自身が言葉を発するとき、おおよそ定義によって物事を伝えようとする。受け手はその定義を共有していれば、過たず読むことができる。しかし万人がそのような読み方をするとは限らず、むしろ、多くの人は、雰囲気で捉える。ゆえに、硬めの表現を使うと「上から目線」「偉ぶっている」というような雰囲気を感じ取り、印象が悪くなる人がいるし、逆に、適切に漢字をひらいてやさしい表現をこころがけていても、「ひらがなが多く幼稚」のような印象を受け取る人もいる。

もちろん、字面の雰囲気をまったく考慮しないということはない。「人」と「ヒト」とでは多分に伝えようとする意図が異なっている。漢字かなの使い分けがあればそこに意図を見出そうとするのは自然なことである。しかし、それが必ずしも適切な読みに繋がるかというと、読みすぎであったり、読み落としであったり、読み違いであったり、起こり得ることである。そこの意図は、その人の持つ「言葉の海」によって変わる。

更に加えていうと、海はたえず、たゆとうている。明日の言葉の海は今日とは違っているだろう。

自分自身ですら、昨日と今日、今日と明日とで正確にコミュニケーションを取ることはむずかしい。いわんや他人をである。


言葉の海の違いゆえに、コミュニケーションは完璧に行うことはできない。けれども、なんとなく通じ合った気になることはできる。たいていの場合はなんとなく通じ合った気で充分で、それで足りなければ、落としどころを見つけるまですりあわせを続けることになる。それがコミュニケーションだと思っている。
完璧なコミュニケーションなんて無理だから、相手の言っていることは間違っている可能性があるから話半分に聞くみたいな態度で対話を放棄すれば、不完全なコミュニケーションすらかなわなくなるだろうと思う。