「ゲームデザインにおける高難度と理不尽の違い」という言葉遊びについて

先に書いてしまうけれど、これはただの言葉遊びで、ゲームデザイン論のレベルに達してないよねと思っている。


理不尽だけど面白いゲームというのは実際にはあり、たとえば初見殺しであったり、ミスに対して悪意あるペナルティを課したりであったりは、理不尽な要素だとは思うが、その要素が存在するから詰まらない、とはならない。で、そういう要素を持つけど面白いゲームを許容するために「一見理不尽に見えるけど緻密に計算されていてちゃんとクリアできるので理不尽ではない」みたいな理屈をこねくり回し始めると、もう何の話をしてたんだっけとなりませんか?

つまりこれは自分が好きな難しいゲームはいい難しいゲームで自分が嫌いな難しいゲームは悪い難しいゲームというのを、高難度と理不尽という言葉に置き換えているだけのことで、なんのことはない、単に言葉を弄しているにすぎない。

シチュエーションによっては、プレイヤーは理不尽さを与えられてもよいと感じている。理不尽だからこそ面白いというシチュエーションもある。ホラーゲームの「驚かせ」要素を誰も理不尽とは言わない。同じことをホラーゲーム以外のジャンルでやれば理不尽と言われかねないように思うが、ホラーゲームでは許される、というより、むしろプレイヤーは驚かされることを望んですらいる。

プレイヤーはゲームに裏切られることを嫌うのであって、理不尽さそれ自体を嫌っているわけではない。プレイヤーの同意なしに与えられる理不尽さに対してストレスを感じるのであって、ある種の理不尽が存在することを同意した上では、それらの理不尽は許容される。

たとえば、初見殺しゲームについていえば、初見殺しされることについてプレイヤーが同意している。だからプレイヤーが意図しない場面で意図しない殺し方をされてもそれは許容できる。

ローグライクゲームでは、死ぬと進捗の大半(場合によっては全て)を破棄される。しかしプレイヤーがこれを理不尽だと非難することはない。死んだら無に帰すことが楽しみの一部になっている。

だから「理不尽」とかいう言葉をもって難しさの良し悪しを峻別する行為は、ただの言葉遊びに過ぎない。悪い難しさを理不尽と呼ぶ行為では、許容可能な理不尽さを決して説明できない。


プレイヤーにとってストレスとなる要素は排除しよう、という流れがあって、それ自体は一考する余地がある。ただ、あらゆるストレスを排除した先にあるもの、それゲームか?って個人的には思っている。

ゲームは、というでかい主語を使うとちょっと面倒だが、少なくとも「障害を乗り越えて目標を達成する遊び」はゲームである。ストレスを排除すると、究極、この類のゲームは失われる。それは望ましいことではないよねと思う。

自分にとって好ましい難しさと好ましくない難しさを「理不尽」なる言葉で峻別してわかった気になるのはやめて、もう一歩踏み込んだ議論をしたほうがいいんじゃないの、と思っている。

こちらからは以上です。