レベルを上げて物理で殴る

RPGのゲーム性についてある種、批判的な文脈で言われるのがこの「レベルを上げて物理で殴る」なんだけど、そもそもレベルってなんのために存在するのかというと、ゲームのステージを区切るためのものである。

アクションゲームやシューティングゲームはそうなっていなくて、ステージの難易度のエスカレーションがすなわち要求されるプレイヤースキルのエスカレーションということになる。

で、実は別にRPGでそれをやってもいい。やってもいいのだけど、RPGのプレイヤーが介在する要素というのはダンジョン探索の戦略、戦闘の戦術である。突き詰めると「ボス戦までリソースを節約し、ボス戦でリソースを叩き込んで殲滅する」である。ここからレベルを除外したときに見えてくるのは、カチカチに固められたリソース管理ゲームの姿である。ここまでくるとRPGというよりは詰将棋だったりパズルゲームだったりというほうがいい。また、ここに乱数を介入させると試行回数で殴るゲームに変わる。こうなるとくじ引きと揶揄されても仕方のない姿になる。

ここでレベルの概念を導入すると「試行回数を重ねれば重ねるほど成功率が上がる」という仕組みを導入できる。おめでとう、このゲームはくじ引きから脱却できました。

次にやってくるのが、どこまでレベルを上げると成功率の期待値が現実的な値になるか、ということである。だいたいこのレベルに達する頃には平均的なプレイヤーがクリアできる難易度になっている、というものである。これが攻略推奨レベルという概念で、だいたいのレベル制のゲームはこれを前提において作っている。リソースの運用が苦手でも、ちょっとオーバー気味にレベルを上げればクリアできることもある。

レベルの概念を導入すると、プレイヤーは「この先の敵は急に強くなるので、先に進む前にちょっとレベルを上げる必要があるんだな」ということを考えたりするようになる。プレイヤーが敵の強さによってステージの難易度のエスカレーションがあることを理解できるようになる。あるいはリソースを投入すれば突破できると考えるかもしれない。そうして突破した先にある報酬に投入したリソース以上の価値があるのなら、そのようなチャレンジをする価値はあるだろう。そこまで考えるプレイヤーは実は多くないが、それを考えさせるのが真の意味のレベルデザイン(プレイヤーのモチベーションをコントロールするステージデザイン)である。

おおよそのゲームは、普通にプレイすれば攻略推奨レベルに到達してからそのステージを突破できるか、あるいは普通にプレイすると攻略推奨レベルにやや届かないくらいのレベルに留まるが、意識してレベル上げをすれば攻略推奨レベルに到達できるし、低レベルのままでも戦術をこらせば突破できる、というくらいに調整してある。

さて、後者のゲームについてなのだが、これは「レベルを上げて物理で殴るゲーム」だろうか。「有効な戦術を考えるよりもレベルを上げるほうが早い」のであれば、そうだろう。たとえば2~3回の戦闘でレベルが上がって攻略推奨レベルに到達するのなら、レベルを上げるほうが早い。しかし、2~3回の戦闘でレベルが上がらないのなら、2~3回ボスに挑んで攻略傾向を掴むほうが早い可能性がある。

ここのバランシングこそがゲームの鍵であって、「レベルを上げて物理で殴る」批判というのは、本質的には「レベルを上げて物理で殴る」ことを批判するものではなく、ゲームの戦術性・戦略性についてプレイヤーが工夫するよりも簡単にレベルが上がってしまうバランシングの難こそが根本的な問題だということになる。

理想的には、アクションゲームやシューティングゲームのように、過去ステージの攻略、特にボスとの戦闘を経てプレイヤーが戦術・戦略を学習するのが望ましい。たとえばバフ・デバフを上手く使うことを学習する場面を用意する必要があるし、状態異常対策を考える場面を作ったりする必要がある。しかし、得てしてボスが初見で回避不能な状態異常を付与してきたりするし、過去のゲーム体験からそのような理不尽さに対する警戒心が拭えず、安全マージンを取ってちょっと過剰気味にレベル上げをしてしまい、結果的に「物理で殴るゲーム」に終始しがちだったりする。

まあでもそのようなプレイスタイルは別に否定するべきものでもない。プレイヤーは自分が投資した時間に対して、適正な見返りを求めている。レベルアップによるステータス上昇と、それによって得られる戦闘の快適化は、その意味ではもっとも公平なリターンである。効率を度外視するのなら、かけた時間が無駄にならないのだから。一方プレイヤースキルの上昇というのは可視化できないので、ここに時間を投入することにはためらいがある。モンスターハンターがプレイヤースキルのエスカレーションよりも快適なプレイングと素材収集による拡大再生産に舵をきったのもわかる話である。