棚に上げる

自分のことを棚に上げておいて批判することの是非……というか「批判の反論として自分のことを棚に上げておいて」という趣旨でいわゆる「おまいう」という便利なフレーズが使われたりするんだけど、ちょっとここで冷静になって考えてみたい。

「おまいう」を封殺すると、批判するには少なくとも同じ論点について批判されないだけの立場が必要ということになる。

異なる論点で「おまいう」が使われるのはわたしは望ましくないと考えているのでここでは置いておく。ただ、よく見かけるよねと思う。

さて、そうすると批判に権利が必要になってしまうわけだけど、そうなると批判は強者の特権になってしまわないか。批判されえない立場というのはえてして強者である。弱者こそ批判の声を上げられるべきで、弱者の批判を封殺するために「おまいう」を使うべきではない。

OK、では批判されうる立場であっても弱者ならば批判してもよいことにしよう。

では、弱者と強者の線引はどうするか。

人間はある面では強者であり、ある面では弱者である。著名人は一般人よりも強い発言力を持つが、その著名人とて100万人の一般人の結束の前にはまったくの無力であることもある。

ボーダー上にいる立場の人間をどう扱うかということもむずかしい。あるときは強者として、あるときは弱者として振る舞うようなことができる。これはバグだと思う。

結局、すべての人間に批判を認めるほうが整合性が取れる。納得しづらさは残る。

棚に上げることの何が悪いのか、ということに立ち返って考える。

人に言う前にまず自分から直せや、ということである。自己批判のない他社批判は虚しい。虚しいが、虚しい批判をすることは許容される。そのような批判を受け止める必要がまったくないわけではない。ただ、受け止めずに棚上げを批判するよりは、受け止めた上で棚上げ批判者に同様の改善を求めるほうがいい。それで批判を受け入れないような棚上げ批判者は徹底的に批判されてよい。あらゆる弱者が己を棚上げして批判してよい。

批判を受け入れても改善がむずかしいことはある。人間は不完全である。寛容でありたい。