夫人

夫人という言葉、子供心にすごく不思議に思った記憶がある。

夫は、通常男性を指す。人は人間だ。夫と人間を組み合わせるのだから、これは男性に見える。けれども夫人というのは、ある男性の配偶者を指す言葉である。これ字を見てもわからないことない? いつ頃からか夫人という言葉を見ても不思議に思うことはなくなったのだけど、言語を身に着けていく過程でときどき厚切りジェイソンになることがある。ありませんでした?

公主という言葉があって、まあ日本語ではあんまり使わず、中国の古典作品などに出てくる言葉なんだけど、これは姫のことを指す。これがわからない。公というのは、大臣や将軍、貴族の公爵を指す尊称、主は字のごとくあるじのことだから、大層偉い人である、という感じなのだが、公主になると姫になる。人を足して並び替えると主人公、これは別に性別を含まない。なんやねん。

まあしかしこういう言葉には字義の外側にふんわりと漂っているものが言葉の意味を為すということが往々にしてあって、よくわからないなりにいつの間にかそういうふんわりとしたものを受け入れてなんとなくそうだろうという感じで言葉をとらえるようになっていく。

日本語、というか漢字で何か言葉を作るときには、字義だけでなく、外側のふんわりとしたものを意識すると自然っぽい言葉ができる。外側のふんわりしたものは何によって構成されているかというと、これは既存の語彙であったり文化であったり習慣であったり通俗的な意識であったりというものである。それは漢字にとどまらず、和語も外来語も、あらゆる擬音語や擬態語さえもが要素である。そういうものに根ざした造語ができると、いかにも造語っぽいという感じがなく、地に足がついたふうになる。

というあたりの話を掘り下げて、日本語での造語の方法をどこかでまとめようと思っている。

いつになるかはわからないんだけど。