ブログの流行、SNSの登場によってインターネットは変わる、Web2.0の時代になる……という話は今からもう15年も前のことだが、それが真に果たされたのはスマートフォンの普及によってで、当時のfacebookと、スマートフォン普及後のfacebookは地続きでも遠くの世界だと個人的に感じている。それはtwitterにしてもそうで、とにかくスマートフォンの普及以前と以後で景色がガワっと変わってしまった。
Web2.0以前のインターネットでは、自身の情報発信空間を持つには条件があったりコストがかかったりしており、ある種特権的なものだった。メモ帳ひとつあればISPのホスティングサービスで「ホームページ」を作れる……というのはごく一部の人に限られていて、インターネットに加入していても、ISPのホスティングサービスにたどり着けない人が大半(そのISPがサービスを提供しているかしていないかにかかわらず)、メモ帳にHTMLを書くという行為も、メモ帳にソースコードを書いてFTPでアップするという初歩的なエンジニアリング作業で、一般人が気軽に行えるかというとそういうものではない。なぜかあの時代のインターネット人はPerlを読み書きし、Windows PCを使っているのにLinuxサーバのパーミッションの概念を理解し、掲示板のスクリプトをアップロードして実行権限を付与するという行為を行ったりできていたが、よく考えなくても異常だった。
ブログの普及によってFTPでファイルをアップロードするという行為を行わなくても誰でも気軽にインターネットに情報を発信できるようになり、著名人がブログをはじめたりしたが、思ってみればこの段階であってもまだぜんぜん趣味人の嗜みの領域で、情報を発信する側よりも受け取る側のほうが多かった。もちろんコメント欄でのやり取りくらいのコミュニケーションはあったが、これだって掲示板やチャットの頃から存在するもので、誰もが発信者という時代ではぜんぜんなかった。
誰もがインターネットで情報を発信するようになったという実感を得たのは、スマートフォンが普及して、誰もがTwitterをやるようになってから、だった。スマートフォンが普及する以前に、たしか2008年だったと思うが、当時の社の勉強会のようなものでTwitterの紹介をしたことがある。まったく薄い反応だった。それなんのためにやるの?という感じだった。「サッカーワールドカップを見ながら知らない人と一緒にリアルタイムに感想を言い合えるんですよ!」ということを説明したがまったくピンとこなかった。知らない人と一緒にリアルタイムに感想を言い合えるということの異常性が伝わらなかった。いや、異常だということは伝わったが、異常なので理解されなかった。そのときのインターネットは、まだ異常なものだった。
ゲームをプレイした感想を「ホームページ」にアップしてあれがよかったこれがよかったという話、たとえば1年2年経ってもできていた。2004年や2005年にCROSS†CHANNELのレビュー記事が個人のサイトやブログにアップされることは普通に起こっていた。SNSは情報の新陳代謝が異様に早く、その瞬間のコンテンツについての話をする。クリアするのに20時間かかるゲームより、5秒で内容がわかるゲームが話題になるようになっていく。それは異常なことだったが、そもそもインターネットで感想を共有するという行為自体が異常だったので、異常なものが次の異常なものに変わったことは、まったく理解されなかった。理解される環境もあったと思うが、当時ぼくがいた社はそういう世界だった。そしてそういう世界のほうが広かった時代だったと思う。
東日本大震災以後、SNSは社会インフラになった。誰もがSNSでコミュニケーションを取るようになった。誰もがインターネットに対して開かれた存在になった。Web2.0がやってきた。そうして思ったのだが、情報発信の機会が平等に与えられるようになっても、情報を行き渡らせることの特権性は変わっていなくて、技術マターだったのが情報発信マターになるという特権の移譲が行われただけ、だったんじゃないかと思う。
インターネットは機会を地理的・時間制約から解き放って、誰もに開いたが、その結果、たとえば地理的優位性によってかろうじて確保できていたものを、他者が金や人的資源で収奪できるようになった。転売はその最たる例だが、転売がここまで拡大したのはインターネット通販の普及によってではなく、インターネット個人売買の普及によって、である。店舗が転売対策のために店舗で販売を行って地理的制約をかけたところで、これは人海戦術によって突破される。そして売り口はインターネットに開かれている! 転売屋の販売経路を遮断しないかぎり、いくら地理的優位性を一般消費者が取り戻したところで、転売屋が優位な状況は変化しないと思っている。
最近ちらっと目にした話題だが、地域ローカルにおいてある分野によく通じていた人間が、インターネット時代には全世界にいる分野のトップレベルの人間と対峙させられることになり、厳しい、というのがあり、これも同様の話に思う。
確かに機会は平等になったが、機会が誰にでもどこにでも開かれているなら、単純に上から順に席が埋まっていき、むしろ階層化が進むんじゃないか、と思う。いや、階層上位にいることができた人間が、下位に降りてくることで、下位の人間が増え、全体的には均一になる、かもしれない。それはおおよその人は普通の人にしかなれない世界で、ぼくは別に普通の人でいいじゃんと思ったりもするが、戦うには厳しい、という感じになっている。
なんでこんなことになっているんだろうな、民主主義ってぼくは20代くらいまでは結局多数決の論理だ、などと思っていたのだが、最近はぜんぜんそうではなく、民主主義って超個人主義なんじゃないかと思うようになってきている。民主主義は別に社会の最大幸福の仕組みでもなんでもなく、強い個人の主権が拡張され続けていく仕組みで、弱い個人は淘汰されて全体化していく。全体化された個人の群れをわれわれはよく目にしている。目にしているよな。学校でも社会でもそこら中にいる。
民主主義で声高に自分の権利を主張する自称マイノリティを見るたび、彼らは特権的階級にいるよなと感じる。多数派が負っている苦しみは多数派にとって当たり前のものなので、多数派の誰かひとりが苦しみの声をあげても、みんな我慢しているんだ!となる。みんなも我慢なんかしなくていいと思うが、最大幸福のために我慢しなければならない場面はある。しかしこれが本当に最大幸福のためか……?という疑問はつくづくある。満員電車に乗らなくても社会が回ることをぼくはもう知っている、みんな朝が辛くても我慢してちゃんと起きてぎゅうぎゅうづめの満員電車に乗って通勤しているんだ、甘えるな、と言われたことについて、やはり納得はできていない。
普通の個人が普通に生きられるようになればいいなと思うが、困難すぎて実現はできない。個人が努力して権利を拡張し、利益を得られる世の中にいて、自分自身も少なからずその恩恵にあずかっているし、今の立ち位置を放棄して社会に奉仕するということもできない。そういう人がほとんどだと思う。
SNSで目にする民主主義的な「活動」の大半は「われわれの苦しみを知れ」で、これの行き着く先は結局超個人主義だと思っているから、うーん、平等ってなんなんだろうな。自由とは……。
特に結論とかはない。