不快の表明という表現の自由と、表現の多様性

不快を表明する行為は、その表現もまた表現の自由として保護されるべきだが、長期的には表現の多様性を損なうことになるだろう。

不快を表明する行為は、何らかの表現の自主規制圧を高めるので、不快を表明する行為が蔓延することで、不快とされる表現は抑圧されていくことになる。困ったことに、ある表現に対して不快だと表明する行為もまた表現の自由の範疇にあるので、この不快の表明を規制することはできない。

しかし、ごく個人的な意見にはなるものの、自分の好ましくないものを単純に好ましくないと述べるだけの行為がどれくらい高等な表現行為かというと、それはたいして高等ではなかろうという気はする。優れた表現だけが生き残ればよいという考えには全く反対だが、全てを保護することはできないので、どうせ保護するんだったらより優れた表現を優先的に保護したいと考えるのはそんなに変なことではない。

ある表現に対して不快の表明をするという行為は、だいたいの場合、率直に言ってインスタントな表現だと思う。一方はその表現のために時間と労力と技術を費やすのに対して、不平や不満の表明は、単に言葉を尽くすのみでできる。この差があるので、全くフェアではない。単なる不平や不満の表明よりも、コストがかかっている表現を保護すべきである、というのは、これもそんなに変なことではないように思う。

表現を取り除くことは、その表現を生み出すことに比べるとずいぶんと簡単にできてしまう。だからこそ表現を取り除くための表現には慎重であったほうがよい、と思う。するなという話ではなく、同じ土俵に上がったほうがよいだろう。同じ表現の舞台に立って、互いを尊重した上で、自身の不快を表明することこそが、本当に表現の多様性を保ったまま表現の自由を実現できると思っている。