侵略的でないこと

このブログはここ最近攻撃的な記事が多いことは自覚しているのだけど、あくまで自己防衛的というか、攻撃的な考えに対するカウンターとして生じていると思っていて、まあだから攻撃的であってもよいかというとそうではないとは思うんだけど、それはそれとして、侵略的でないようにということは心がけているつもりでいる。

侵略的でないようにしようと思ってもなかなかむずかしく、他者の領域を侵犯することは容易に生じがちだから、侵略的であるかもしれないことを自覚することがまず大事なことなんじゃないかなということを思っている。

よいことよりは悪いことのほうが他者の領域を侵しがちだと思うんだけど、これは特に根拠がない。よいことも他者の領域を侵すことはままある。こっちのほうが正しいんだとか。そういうもののほうがかえって厄介だったりもする。信仰は個人のものに留めるべきである。

悪いこと……あれはよくなかった、あれはだめだった、という表明は、あれはよかった、という表明に比べて、かえしのついた針のように、刺さってなかなか抜けない、ということになりやすい気がする。

印象として、他人があれがよかったという話はだいたい信用されなくて、捨て置かれることが多くて、逆に他人があれがよくなかったという話はたびたび共有される。印象とはいえ、実感としてそういう傾向を利用した戦略というのは現実に存在しているし、そんなに間違った認識でもないように思う。

負の感情ほど共有されやすい……というわけではなくて、単に感情値が振れているほうが共感を得やすいのであって、極端に喜ばしい話なんかも割と共有される。
でもこの極端に喜ばしい話にしたって侵略的だよなということを思っている。

ひょっとすると、あれなのかな……そのような情報に塗りつぶされることをして侵略的だと感じているのかもしれない。

それは別に同調圧がとかっていう話ではなくて、いやでも目に入ってきてしまう状況っていうのは、なんというか毒である。

パーソナライズされた度の強すぎない感情の共有みたいなものが今後重要なテーマになっていくような気がしている。

特に結論めいたことをもって書いているわけではないのでこのへんでこの記事を締めるけど、侵略的であることについては今後も考えていきたい。