攻略順フリーであることとレベル制の親和性の低さをどう解決するか

幾分批判的なトーンでRPGは一本道であると言われる。これを解決する方法の一つが攻略順をフリーにすることで、巷ではフリーシナリオとか、あるいはエリア間移動をシームレスにするところまでを含めてオープンワールドと呼んだりする。エリア間移動をシームレスにすることは、言ってみればステージの垣根を視覚的に取り除く行為でもあって、適正レベルに応じてステージを区切ったときにあらわれるアトラクションテーマパークを遊ばされているという印象を拭うのに効果的でもある。今回はそっちはひとまず置いておくとして、フリーシナリオの話をしていく。

フリーシナリオでステージごとに適正レベルを設けると実質一本道になり、上手く機能しない。一本道であるほうがプレイヤーにとって望ましい場面すら出てくる。それでもフリーシナリオにはプレイヤーが自発的に選択しているという実感があるので、推奨攻略順が一本道になる場合でも、攻略方法をプレイヤー自身が見出すことで、ある種のショートカットをして早解きが可能、みたいなゲームは存在するし、それも一つの解決だろうとは思う。

しかしこれは攻略順をスキップしているだけで、攻略順を組み替えていることにはならない。

効果的に攻略順を制御しているゲームは、ほかのジャンルをみるといくつか見られる。たとえばロックマンはボス武器の相性によって攻略順をコントロールしているが、プレイヤーによって得意不得意もあり、必ずしもその順で攻略しなくてもクリアできるし、そのような攻略方法も許容される。このようなあるステージを攻略することで次のステージの難易度が下がるという方法は参考にしてよさそうだ。

一方この方法であっても、やはり推奨攻略順のようなものは生じるし、おおよそのプレイヤーはその方法で攻略するようになる。自分で考えて正しそうな攻略順を編み出す時代にはそれでよかったが、現代ではインターネットによって即座に最適攻略順が提示されてしまう。結果的に一本道になる。もっとうまい解決方法はないだろうか。

サガシリーズのいくつかの作品では戦闘回数で敵テーブルが変わるという仕組みを取り入れることで、プレイヤーがどの順で攻略してもレベルのエスカレーションが発生することを目指している。なんだけど、これ「敵との戦闘を最低限に抑えることで難度上昇を抑え、アドバンテージをキープする」のが目的になり、結果的に「敵と戦闘せずに戦力増強可能なシナリオを選択していく」ことにインセンティブを生じさせている。平たく言うと、この方法でもやっぱりおおよそ同じ順で攻略していくことになる。とはいえガチガチな攻略方法を構築しなくてもクリアできるようなゲームバランスになっているので、一本道感は薄い。ある程度は成功していると言っていい。

ところで、このようなゲームの進行度を攻略エリアではなく敵テーブルでみるとどうか。攻略エリアは自由になったが、敵テーブルは進行度と同期している。ゲームが進むにつれて出てくる敵が変わる。このゲームからエリア探索を排除し、敵との戦闘だけを行うようにすると、一本道のゲームになる! RPGは探索と戦闘の両輪で構築されている。戦闘が一本道になるということは文字通り片手落ちになってしまう。もちろんボスはエリアによって異なるのだが、これはたとえば学習度で攻撃パターンが変わるのようなギミックで制御している。ここに攻略の多様性を見出すことはできなくはないが「通常敵との戦闘を通じてボス戦の予習をする」という仕組みを組み込もうとすると、結局一本道じみてくる。

「通常敵との戦闘は稼ぎ」と割り切り、ボス戦だけでプレイヤーにゲームを学習させるというのは一つの解決である。そのような方法はロックマン方式との相性がいい。

ランスXはロックマン方式を採用しながらも、ランダムで入手したキャラクターによってステージの向き不向きが変わるというデザインを取っている。毎回同じプレイングが通用しないが、周回を重ねるとキャラが強化されたり、周回ポイントでレベルが上がりやすくなったりなんだりというデザインになっている。ステージクリアの方法で難易度の上がり方が変わるのも妙手で、早解きすると急激な難度上昇を誘発する。じっくり攻略することで自軍の戦力増強と難度のエスカレーションのバランスを取ることができるが、攻略にはタイムリミットがあり、のんびりしていると人類は破滅する! これを周回によってプレイヤーに学習させながら、周回ボーナスを与えることで、ゲームプレイを通じたレベルの上昇、プレイヤースキルの上昇を実現している。

これは今あるゲームデザインを組み合わせて出てきたものなので、それほど不思議なものではない。


これは思いつきのアイデアにすぎないものだが、敵ごとに「理解度」というステータスを設定し、同じ敵と複数回戦闘することでたとえばクリティカル率、命中率、回避率が上がったりするような仕組みを設ける。初見のエリアには初見の敵が登場するので、前エリアの攻略が通用しない、ということをパラメータでシミュレーションするわけだ。そのかわりにキャラクターのレベルは撤廃するか、きわめてマイルドにする。

この仕組みではエリアを通じたエスカレーションを導入する必要はない。エリア内でエスカレーションを閉じてよい。が、あるエリアの攻略が他のエリアの攻略を有利にするような仕組みは導入したほうがよい。相互の影響が薄いゲームは攻略順が自由なのではなく、単に別のゲームをバラバラに並べただけのものでなってしまう。たとえば同系のモンスターには「理解度」ボーナスがある程度適用されてもいいだろうし、あるエリアを攻略したときに得られるアイテムが後のエリアの攻略で有用という仕組みも有用だ。

これは言ってみればエリアごとに進捗をリセットせよ、というアイデアだ。違うことをやっているのだから、違うレベルを要求すればよい。全体を通じた進捗度を並行して上げていくことで、プレイヤーとしては攻略が進むにつれてできることが増えていく実感を得られるようにできる。というアイデアは、実のところRPG以外では普通に存在する。たとえばローグライクゲームは、毎回進捗がリセットされる。しかし攻略方法はプレイヤーに蓄積される。ここをプレイヤースキルではなくゲームシステム側でカバーするアイデアを採用したのがたとえば周回制のゲームになる。両方を組み合わせたゲームというのもある。前述のランスXもそうだが、プレイヤーが死に覚えの間にもゲームシステム的なリソースが蓄積されて攻略難度がマイルドになるというアイデアは、実にうまい方法に思う。実際のところはRPGのレベル制と同じことではあるのだが、別にそれは一つのゲームで閉じていなくてもいい、ということなのだ。


ここまでをまとめて振り返って結論を出していこう。

RPGはレベル制を導入することで、プレイヤーの学習以外の方法で難易度カーブをコントロールするという方法を生み出した。しかしこれによってステージの攻略順はある程度固定化され、ゲームの自由度が下がってしまった。ゲームの自由度を取り戻すために攻略順フリーを導入したら、今度はレベル制が壊れてしまったので、攻略順に関わらず難易度が上昇する仕組みを導入した。そうすると見かけ上攻略順を自由にすることはできたが、戦闘を切り取ってみると実は一本道になってしまっている。レベル制とフリーシナリオを両立することはむずかしい。

以下のような解決アイデアがある。

  • レベルの一元管理をやめ、エリアごとに細分化したレベルを導入したり、ゲームを横断したレベルを導入することで、難度のエスカレーションをパラレルにしたり、多段にしたりできる。
  • 次に進むべきエリアの提示をゲーム毎にランダムにすることで、多様なゲーム展開を可能にする。

こちらからは以上です。

レベルを上げて物理で殴る

RPGのゲーム性についてある種、批判的な文脈で言われるのがこの「レベルを上げて物理で殴る」なんだけど、そもそもレベルってなんのために存在するのかというと、ゲームのステージを区切るためのものである。

アクションゲームやシューティングゲームはそうなっていなくて、ステージの難易度のエスカレーションがすなわち要求されるプレイヤースキルのエスカレーションということになる。

で、実は別にRPGでそれをやってもいい。やってもいいのだけど、RPGのプレイヤーが介在する要素というのはダンジョン探索の戦略、戦闘の戦術である。突き詰めると「ボス戦までリソースを節約し、ボス戦でリソースを叩き込んで殲滅する」である。ここからレベルを除外したときに見えてくるのは、カチカチに固められたリソース管理ゲームの姿である。ここまでくるとRPGというよりは詰将棋だったりパズルゲームだったりというほうがいい。また、ここに乱数を介入させると試行回数で殴るゲームに変わる。こうなるとくじ引きと揶揄されても仕方のない姿になる。

ここでレベルの概念を導入すると「試行回数を重ねれば重ねるほど成功率が上がる」という仕組みを導入できる。おめでとう、このゲームはくじ引きから脱却できました。

次にやってくるのが、どこまでレベルを上げると成功率の期待値が現実的な値になるか、ということである。だいたいこのレベルに達する頃には平均的なプレイヤーがクリアできる難易度になっている、というものである。これが攻略推奨レベルという概念で、だいたいのレベル制のゲームはこれを前提において作っている。リソースの運用が苦手でも、ちょっとオーバー気味にレベルを上げればクリアできることもある。

レベルの概念を導入すると、プレイヤーは「この先の敵は急に強くなるので、先に進む前にちょっとレベルを上げる必要があるんだな」ということを考えたりするようになる。プレイヤーが敵の強さによってステージの難易度のエスカレーションがあることを理解できるようになる。あるいはリソースを投入すれば突破できると考えるかもしれない。そうして突破した先にある報酬に投入したリソース以上の価値があるのなら、そのようなチャレンジをする価値はあるだろう。そこまで考えるプレイヤーは実は多くないが、それを考えさせるのが真の意味のレベルデザイン(プレイヤーのモチベーションをコントロールするステージデザイン)である。

おおよそのゲームは、普通にプレイすれば攻略推奨レベルに到達してからそのステージを突破できるか、あるいは普通にプレイすると攻略推奨レベルにやや届かないくらいのレベルに留まるが、意識してレベル上げをすれば攻略推奨レベルに到達できるし、低レベルのままでも戦術をこらせば突破できる、というくらいに調整してある。

さて、後者のゲームについてなのだが、これは「レベルを上げて物理で殴るゲーム」だろうか。「有効な戦術を考えるよりもレベルを上げるほうが早い」のであれば、そうだろう。たとえば2~3回の戦闘でレベルが上がって攻略推奨レベルに到達するのなら、レベルを上げるほうが早い。しかし、2~3回の戦闘でレベルが上がらないのなら、2~3回ボスに挑んで攻略傾向を掴むほうが早い可能性がある。

ここのバランシングこそがゲームの鍵であって、「レベルを上げて物理で殴る」批判というのは、本質的には「レベルを上げて物理で殴る」ことを批判するものではなく、ゲームの戦術性・戦略性についてプレイヤーが工夫するよりも簡単にレベルが上がってしまうバランシングの難こそが根本的な問題だということになる。

理想的には、アクションゲームやシューティングゲームのように、過去ステージの攻略、特にボスとの戦闘を経てプレイヤーが戦術・戦略を学習するのが望ましい。たとえばバフ・デバフを上手く使うことを学習する場面を用意する必要があるし、状態異常対策を考える場面を作ったりする必要がある。しかし、得てしてボスが初見で回避不能な状態異常を付与してきたりするし、過去のゲーム体験からそのような理不尽さに対する警戒心が拭えず、安全マージンを取ってちょっと過剰気味にレベル上げをしてしまい、結果的に「物理で殴るゲーム」に終始しがちだったりする。

まあでもそのようなプレイスタイルは別に否定するべきものでもない。プレイヤーは自分が投資した時間に対して、適正な見返りを求めている。レベルアップによるステータス上昇と、それによって得られる戦闘の快適化は、その意味ではもっとも公平なリターンである。効率を度外視するのなら、かけた時間が無駄にならないのだから。一方プレイヤースキルの上昇というのは可視化できないので、ここに時間を投入することにはためらいがある。モンスターハンターがプレイヤースキルのエスカレーションよりも快適なプレイングと素材収集による拡大再生産に舵をきったのもわかる話である。

ねぎとろの語源

語源について調べているうちに、巷で「ねぎとろは動詞『ねぎ取る』が転訛した語」なる説に対する疑わしさが一層増してきたという実感がある。

転訛というのは多岐に渡りやすい。発話しやすさは人により、同じ言葉でも人によって発音が異なるということがある。であれば、転訛の起こり方も人に寄って異なろうものである。が、ねぎとろについて、ねぎとろ以外にねぎとるから派生しうる名前は寡聞にして知らない。ひょっとするとあるのかもしれない。いわくこれは魚河岸や寿司職人における符牒だというから、記録が残っていないのだと。記録が残っていないのでもしかしたら過去には残っていたのかもしれない。とはいえせいぜい半世紀くらいの歴史の語なので、生きた人間に当時のバリエーションを知る人間がいないのは不自然じゃない?という気持ちが強い。

どういう転訛の派生があるのかちょっと考えてみる。

「ねぎ取る」が名詞らしい形に収まるとして、語末が -o となるのは割合よく見られる。自然な転訛だろうと思う。一方で「ねぎ取る」の「 ねぎ」が「葱」と関係ないのなら、ここは別に重要ではないので、より短い形に変化してもおかしくはなかろうという感じがある。

「ぎとろ」「ぎっとろ」「ねとろ」「ねっとろ」みたいなバリエーションはなんでないのか。

また「ねぎ取る」は「根-切-取る」だという説がある。そうだとするなら、「ね-き-どる」のような形の読みがあったかもしれない。「ねきどろ」は「どろ」なので使うのを避けられたという可能性はある(どろソースやどぶ汁のような例もあるので一概に避けられうるものというふうには考えていないが)。「ねきとろ」は発話しにくいので、どこかが連濁を起こす。とすれば「ねぎとろ」はそれなりに自然ではある。

あるいは「ねぎ」でなく「ねぐとろ」でもよさそうなものではある。と思って調べてみると、近年「ねぐとろ」という呼称が使われたりはしているようだった。2012年以前には見られないので、単に typo とも言い難い。あえて「ねぎ」の語を避けようとしているのかもしれない。

「ねぐとろ」以外については使われた形跡がない。「ねぎとろ」は市場に出回ったときから「ねぎとろ」だったと考えたほうがいい。誰かが「ねぎとろ」という名前で商品にして売り始めたのでまわりが追随して定着した、と。

便乗した人間はこれをどういうつもりで使ったかというと、当然「ねぎ+とろ」のつもりで売ったわけだ。とろっぽいの脂身にねぎの風味でさっぱりさせる、なるほどおいしそうだ、と。少なくとも売る側の人間が「これはまぐろの身をねぎとったものです」といって売ることはしない。それよりも「とろっぽい脂身」を売るほうがバリューがある。ねぎとろが全国のスーパーに並んだのはたぶんバブル期のことなので、そういう背景は考えたほうがいい。もとの語源がどうだったとかは関係なくて、今使われているねぎとろはおそらくは葱の存在の影響を受けている。そこから目をそらすとかえって不自然な説に頼ることになってしまう。

そのうちにこれが民間語源であることが証明されればいいんだけど、トリビアが世間を席巻*1して以来、そういう民間語源っぽいものが支持されやすくなっていると感じる。たいそう由々しいことだなあと思う。

こちらからは以上です。

*1:激うまギャグ

雑記

あとになったらたぶん何読んだか忘れると思うので読んだ漫画とか小説の話とか書き残しておく。

漫画

kindle つい買いがちで危険なんだけどどうしたらいいんですか?

ざつ旅-That's Journey- 1 (電撃コミックスNEXT)

ざつ旅-That's Journey- 1 (電撃コミックスNEXT)

よかったです。ただ、いま読んでもふらっと旅に行ったりはできないのに、旅に行きたくて仕方なくなるので危険。2巻の後ろの方の見開きがこの漫画の本質っていう感じがして最高によかった。

HGに恋するふたり(1) (角川コミックス・エース)

HGに恋するふたり(1) (角川コミックス・エース)

あれ、まだ1巻しか出てないんだっけ、ってなったんですけど、のんびり2巻待ちます。

switch (1) (少年サンデーコミックス)

switch (1) (少年サンデーコミックス)

  • 作者:波切 敦
  • 発売日: 2018/11/16
  • メディア: コミック

1巻のラストでああいうことするのはズルでしょ……7巻まで買って一気に読んでしまった。

ネット小説書いてる男の子とそのファンなんだけど素直になれないお嬢様のラブコメ。こういうほんわかラブコメ最近多いんだけどいくらあってもいいのでどんどん増えてほしい。
うららめっちゃくちゃかわいくて1億万点。みんなが買ってくれると続きが出やすくなるのでみんな買ってくれ頼むぞ!

小説

kakuyomu.jp

不登校の女の子がイギリスから来た日本人にしか見えない自称「魔女」の青年といっしょに変な和食を作りながら、ちょっとずつ自分を見つけたり、他人との関わり方をわかっていくっていう感じのお話。10万字くらいで完結してて読みやすいし読後もさわやかでよかったです。

kakuyomu.jp

魔王の配下になるやつ。魔王の配下になるやつでヒロインがサキュバスとか吸血鬼みたいなのがひとつのアーキタイプとして定着してるなという感じがあるんですが、めちゃくちゃ好きなのでどんどん増えてほしい。120万字くらいで完結してるので気長にじっくり読むのがいいですね。自宅でのんびり過ごすときのお供に。

あとゲームいろいろやったんですがゲームの話は別途記事起こしてやります。

あとSBクリエイティブがポイント50%還元セールやってるのでゴブリンスレイヤーの最新刊までを一気買いしました。1巻だけ買って読んでちゃんと読みたいと思ってたけど知らんうちにアニメ化して巻数も5冊くらい増えてて今から追うの~みたいな感じになってしまったんだけど買えるときに買っとけばそのうち読むでしょう。

こちらからは以上です。

テキスト書きのためのバージョン管理

単に git を使うだけではけっこう厳しい。

まず、テキストメディアは、テキストデータそれ自体は論理情報だが、表現は視覚情報と不可分であることも少なからずある。ただし脚本やボイスドラマのようなものは必ずしもそうではなくて、これらはある種のソースコード、たとえば楽譜のようなものとして扱うことができるかもしれない。それはひとまずおいておく。

ここでは視覚テキストメディアの話をしていく。視覚テキストメディアとは、

  • 字幕スーパー
    • 1〜2行、十数文字程度
  • ゲームの会話文
    • 一つのメッセージウインドウに2〜4行程度のメッセージが収まる
  • Twitter小説
    • 1メッセージ140字程度
  • 紙の小説
    • 一ページに一行40字程度、20行くらいの文章が収まる
  • Web 小説
    • 一行40字程度で数十〜百行以上連続する
    • PCとスマートフォンとで一行の表示文字数に違いがあることもある
  • 電子書籍(フローレイアウトの場合)
    • 一行、一ページの表示文字数は可変で不定

のようなものである。もちろんゲーム実況動画*1など、より複雑なケースもあるだろう。

Web小説や電子書籍のフローレイアウトのような一行の文字数が可変になりうるメディアにおいては、形式段落程度の粒度で差分を取り扱ってもそれほど不自由はない。場合によっては句点など文の終了記号単位で分割してもいい。ただし、そうであっても生のテキストデータのままで差分を作るのは難しい。一行が百文字以上になることは少なからずあり、同じ行内に複数の変更が混在しうる。そしてそれら変更にはなんら相互関連性がないこともしばしばある。コミットの粒度をちいさくすることで差分を取り扱いやすくしようという git の思想とは相容れない部分である。

どうするか。たとえばもっと小さな単位で分解して構文木を作るというやり方がある。構文木は論理情報なので差分を出すのに向いている。
現実的で低コストなのは、ある種の約物で分割してしまうというやり方である。句読点や括弧類をまたいで相互に影響するような変更というのがまったくないわけではないが、それはプログラムのソースコードにしてもそうである。関連する変更がバラバラになっても、一行に複数の変更が混在するケースを減らすほうがマシだということである。小説は作業工程の都合上、コミットの粒度をちいさくするのがむずかしい。だから変更点を細かな単位で抽出しましょうということである。欠点もある。句点の位置が変わることはあまりないが、読点の位置は変わる。約物の単位で作った構文木同士の差分では、おそらく読点の位置を変更しただけの変更がそうであるとわかりにくくなる。

文字数が可変な媒体はそれでいいとして、一行の文字数なり一ページの行数なりが固定のレイアウトにおいては、折返し位置が重要な意味を持ちうる。おおよそ編集時には自動折返しを利用し、出力時に固定位置で行分割を行うと思う。行分割後のテキストデータは編集性が著しく下がるからだ。しかし、差分としては出力時の状態で出したい。

この場合、一文字挿抜するだけで全体の見た目に影響を及ぼすことがありえる。git は単にある行の何文字目の文字が増減したことしか関知しない。差分の論理情報としては正しいが、チェックを行うにあたっては、出力結果の差分を取り扱う必要があり、それは画像の差分と同じようなものとして考えなければならない。たとえばバイナリエディタの差分機能のように位置の取り扱いが厳密に行われるものがあるが、視覚テキストメディアのソースコードもまたそのように扱うべき性質のものである。

視覚に関しては、たとえば禁則のようなルール以外に、複数行間での行頭あるいは行末の文字の重複のような見栄え上の問題もある。これをチェックするために差分を出したいわけだが、別段人間の目で検出しなくてもよく、機械的に処理可能ならそのようにすればよい。であるなら、視覚上の差分の検出にそこまでこだわる必要はなくなるかもしれない。

プリコミットフックなどで自動で構文木を作って git で管理するようにすれば、まあまあマシになるのではないかと思う。あくまでマシであって、作業プロセスにバージョン管理ツールを組み込みにくいこと自体をどうやって克服していくのかという課題は残る。どうするのがいいのかアイデアがあったら聞きたい。

こちらからは以上です。

*1:たとえばbiim式実況動画は字幕と右枠説明欄とでそれぞれに独立してテキスト表示が進行する

Weblio のプレミアム会員が便利

Weblio という辞書サービスがあるんですが、これをオンラインの英語辞典として使っています。月額300円払うとプレミアム会員になれるんですが、プレミアム会員になると辞書のカスタマイズができ、おおよそこの機能のためだけにプレミアム会員になっていました。

辞書のカスタマイズっていうのは、使わない辞書を非表示にするやつです。

ぼくは、

  • 眼科専門用語辞書
  • PDQ®がん用語辞書 英語版
  • ライフサイエンス辞書
  • 遺伝子名称シソーラス

この4つを非表示にしています。

まあたかだかこの程度のために300円払うかどうかは人によるとは思うんですが、広告を非表示にできたり、単語帳に20000語まで登録できたり*1、という具合に便利な機能もあるし、なによりオンラインの辞書サービスには存続してもらわないと困るという気持ちもあり、使わせてもらってありがとう料みたいなところもあります。

で、最近気付いたのが、どうやらWeblioには語彙力診断テストとかいうものが存在するらしい。無料でも使えるんですが、プレミアム会員は制限なしで使うことができます。

英検の各級やTOEICの各スコアに応じた語彙をどれくらいカバーできているのかみたいな診断もできる。え、便利じゃない……?
私は英検は2級を受けるのが面倒になって準2級までしか持ってないし、TOEICも受けるのが面倒になって受けにいってなかったんですけど、じゃあ自分が果たして今どれくらいのスコア取れるんだろうみたいなの実はあんまりよくわかってなくて、携帯に Duolingo とか入れて英語勉強するかーってときも、どれくらいの難易度からはじめりゃいいんだっけ?みたいなのがわからない。

ちょっと試しに470やったら全然かんたんだったので、600と730に挑戦したら、600はまあいけるけど730はカバー率50%という感じになったので、おおよそ600〜700点台という感じらしい。総合力診断ではだいたい語彙数6000くらいと出たので、妥当な線でしょうという感じもする*2

まあこういうサービスいろいろあると思うんですが、月額300円で辞書を快適に使えて語彙力診断できてわからなかった単語を単語帳に放り込めるみたいなのが便利なので、英語やっていきたい人はおさえておくといいかもしれません。これプラススマートフォンアプリっていうのがいいかもしれません。スマートフォンアプリのほうがたぶんスピーキングとリスニングには向いてるし。

こちらからは以上です。

*1:実用レベルだとせいぜい2〜3000語登録できれば充分な気もします

*2:700点台は8000語必要らしい

私を構成する5つのマンガ

っていうのがツイッターでちょっと流行っていて、まあやったんですけど、5つに絞れねーじゃん!ってなって、でも振り返って自身についての影響を考えてみると、まあやっぱりこの5つなんじゃないか、という感じになったので、5つについてちょっと掘ったものを書いておきます。

王ドロボウJING

続編も込みで好きなので続編の方も。

エピソード連作方式で、各エピソードに一人ずつジンガールというヒロインがいるというふうになっています。ボンドガールみたいな。キャラクター名がお酒をモチーフにしていてこのへんからお酒に興味を持ったと思います。シャルトリューズとかいうお酒のことを知ったのもたぶんこの作品だったと思う。絵がまずすさまじいので絵の話になることが多いんですけど個人的には台詞回しが気に入っています。あとは話の読後感のよさがまた絶妙にいい。毎回ヒロインが変わるということは、毎回出会うところからやって最終的にヒロインとの別れを描くので、そういう感じになります。伝わってくれ、いや伝わらないので読んでくれ。

競馬狂走伝ありゃ馬こりゃ馬

ありゃ馬こりゃ馬 第1巻

ありゃ馬こりゃ馬 第1巻

ありゃ馬こりゃ馬 第5巻

ありゃ馬こりゃ馬 第5巻

最近馬の話ばっかりしてて馬好きなんだろうなっていうのは伝わってると思うんですが、ぼくが馬をいちばん見てた時期が98~99年くらいで、当時はサイレンススズカステイゴールドグラスワンダースペシャルウィークエルコンドルパサーセイウンスカイ……とそうそうたる顔ぶれだった時代なんですけど、だいたいそれくらいの時期に完結したマンガです。
リンクは1巻と5巻のものなんですけど、これ見てわかるように1巻~4巻までと5巻とで作風がぜんぜん違うんですよね。4巻まではギャグ、競馬あるあるマンガという感じで、5巻から打って変わって競馬ドラマになっていきます。田原元騎手の競馬観や騎手観が投影されていて、そのあたりのリアルさやシビアさは真に迫るところがあります。原作の田原氏自らが体験したサンエイサンキュー事件を元にしたエピソードとか。最終巻がこれまで凄まじい。読んで味わってほしい。全17巻と割と手を出しやすい長さだと思います。

天からトルテ!

週間ファミ通で連載されてたファミ通編集部に魔女がやってきてドタバタ騒ぎを繰り広げるコメディマンガです。マカロンとかいうメカクレ魔女が出てくるんですけどメカクレに目覚めたのがたぶんこのへんからだと思います。グラニテとトルテもかわいいですね。
実はリアルタイムでは最終回まで読んでないので電子版で全巻買って読みました。けっこう覚えててびっくりしたけどそれくらい好きな作品だったんだなあという感じもあり、今読むと時代を感じさせる部分もあり、懐かしくもあり……まあでもいい時代だったなというか、アスキー時代のファミ通編集部よかったですね。

ダブルゼータくんここにあり

記憶にある最古のマンガ体験がこの作品で、MS少女とかいう存在に出会ってしまった作品でもあります。ぜんぶケンプファーちゃんが悪い。ひらがな五文字であおいたくなのはこいでたく先生リスペクトだったりもします。
ちょっと寓話ぽい話というか、子供であるダブルゼータくんがなにか体験して、話の最後に大人であるマラサイさんとの対話を通じて、ふんわりと物事の善悪とか倫理とかを学んでいく話が多いんですけど、子供の頃に読めてよかったですね、という感じがあります。
今読んでも押し付けがましさは感じないので、そのへんのバランス感覚が絶妙ぽい。 あと今作の紳士ジョークが好きすぎる。あおたく語の基礎はたぶんこのへんで培われてると思います。

ダンジョン飯

ダンジョン飯 1巻 (HARTA COMIX)

ダンジョン飯 1巻 (HARTA COMIX)

あとから振り返ってみるとまだ完結してないやつここに入れるのどうだろうなという感じだったんだけどまっさきに思いついた5作にこれが入ってたのでまあこの作品の自身に与えた影響よ、という感じですが、たとえばゴーストに聖水が効くというファンタジーのお約束があったとして、霊体が物質をすり抜けるなら、瓶ごと当てればいいのでは?という発想が出てきて、ブラックジャックのように瓶を布で包んで振り回してゴーストを殴るということをやる。そういう発想のするどさにセンスオブワンダーを感じるんですよね。
ダンジョン内で食糧を調達することで継続して探索可能にするっていうところに立脚してるので、本質的にはダンジョンアタックの話だと思ってます。現代版ウィザードリィですよね。
今作あといいなと思っているのは人間のことをヒューマンとか言ったりしないところで、多種族に対して比較的背が高い特徴があるのでトールマンって呼んでるところですね。この作品以降人間主観でない描き方がよく見られるようになったと思いますけど、いいことだと思います。


自分が何読んでどう感じたかみたいなことたまに振り返ったほうが自覚的になれるっぽいのでちゃんとブログ書いたほうがいいですね。書いていきます。まあ書いてるんですけど。

こちらからは以上です。