かつて作家になりたかった20代の自分へ

今わたしは場末のプログラマとして、売れない作家よりはいい程度の稼ぎをもらってそれなりに不自由しない程度の暮らしを送ることができている。

16年前にシステムエンジニアになって、それから3年間、作家になることを志しながら設計書を書いてプログラムに書き起こすということをやっていたけれども、原作を担当したマンガがコンペ落ちというのがその三年間の限界で、まあでも今振り返ってみるとそのときにはたくさんチャンスがあったと思うんだけど、そのチャンスを活かすには本業で心身ともに疲弊しすぎていて余力がなかったから、結局それが限界だったろうと思っている。

一方で一次創作の同人小説を三桁部売ったというのは一次創作の文章書きとしてはまあまあ?そこそこ?という感じで、この部数に届かない商業作家も少なからずいることを今は知っているので、作家になりさえすれば自分の書いた作品を世の本好きに届けられるみたいな幻想を抱くには現実を知りすぎてしまっている。

いや当時は言ってもイージーモードで、コミケの一般参加者の熱量が高くてサークルチェックを積極的にやってくれていた時期だった。個人ウェブサイトを巡回してリスト作ったりしてた。もうみんな今はツイッターで「貴サークル」で検索してるでしょ。そんな便利なものなかったから人力作業をがんばってたの。それが当たり前だった。小説は当日手にとってもらって買ってもらうハードルがめちゃ高いから、事前に告知してサンプルを自分のサイトに載せてそれを読んでもらうというのがめちゃくちゃ重要で、それをやらずに当日だけでなんとかしようとするとかなり苦しい。苦しいが、逆に言うとサンプル載せてたら興味ある人は読んでくれて、それで当日買いに来てくれていた時期だった。じゃなきゃ委託販売込みといっても素人の書いた創作小説が三桁部も売れるわけないんだよな。

今はけっこう厳しくて、なんならなろうで無料でいくらでも読めるので、わざわざ同人小説を買いに行って読もうという感じにはならない。買ったけど読んでないみたいなのもたくさんあると思う。それよかなろうのほうが読まれる。読者数でいえば神立地のほうがExFよりもずっと多かったと思う。神立地の手応えからいってもこれ作家になるよりなろうで書いてる方が読まれるじゃんという気持ちがあった。まあ神立地も本業が忙しくなったらずっとは書いてられないなってなってそのうちに続き何書こうとしてたか忘れちゃったからもう続き書くのは厳しいんだけど。

そのなろうも神立地の頃はイージーモードで、今はもうちょっと厳しい。研究が進んだ結果最適化した動きをしないとなかなか読まれない。カクヨムとなろうだったら今どっちが読まれるかっていうと多分なろうのほうが読まれるチャンスはあると思う。これは単純に読者数の差かなと思う。なろうよりカクヨムのほうがランキングには載りやすいと思うけど、カクヨムはランキング載ってもあんまりブーストない気がする。なろうでランキング載るのは厳しいと思うけど、ランキングのブーストは強い。

いずれにしても、たくさんの人に読まれるために何にもしなくていいってことはなくて、そのための労力を払う必要がある。作品だけ書けばいいわけじゃなくて、企画を立てて、戦略を練って、広報を打って、そして何より、折れずに続けないといけない。

なろうやカクヨムで書籍化までいった作品って結局のところ書き手が折れなかったっていうのが一番デカいと思う。普通の人は十万字とか二十万字とか続けて書けない。ましてや100万字とか200万字とかね。

おかしな転生とか、神立地の更新止まったくらいから始まった作品だったと思うけど、今アニメ化に到達したのって、今の今までずっと作品が続いてるからだと思ってる。書籍もずっと続けて出てるけど、コミカライズは割と最近で、そのへんから人気が伸びたかな。これよりもっと長寿作品でもアニメ化まではいかないってのはたくさんある、なんせ異世界ハーレムが今年のアニメ化作品だもんな。理想のヒモもまだアニメ化してない。このへんのかつての累計一位勢ですらこうなので、月なみだけどやっぱ継続は力だと思う。

もはや紙の本も所有欲を満たすためのツールでしかなくて、読みたいんだったら電子で読んだほうがと思うようにさえなった。こうなってくると、書店に並ぶこととかは単なる名誉欲にすぎなくて、それくらいだったら紙の同人誌のときに実績クリアしてるんだよな。もちろん一般書店に並ぶこととの差は理解しているんだけど、もうAmazonなんか見てると自費出版も商業出版も一緒くたの売り場に陳列されてるようなもんだから、こうなってくると商業だからなんなのだという思いが強い。

先日感想を書いた怪獣姫はSteamで12万本売れたんだったか、これもう下手なコンシューマーゲームより本数では凌駕してる。もちろん単価は違うけど、だとして、普通のコンシューマータイトルで5000円のが3万本売れるよりも低予算で作った2000円のゲームが12万本売れてるほうがやっぱ売れてるじゃんというか、もうそういう時代なんだよなと思ってる。

そういう時代。商業で売るっていうのも、お膳立てしてもらって勝手に売れるなんて時代ではもはやない。作る側は売れるものを考えて作らないと売れない、売り方も考えないといけない。商業ルートに乗りさえすれば売るための努力はしなくてもいい、なんていう無邪気な信仰はもはや、という時代。

まーでも結局お金を得る、仕事にするということは、大なり小なりそうだろうと思う。よっぽどサラリーマンのほうがそのへんのこと考えずに済むよ。

20代当時の自分は本業で稼いで小説を趣味でやるんじゃなくて小説で食っていきたいと思っていた。思っていたが、小説を書くことと、小説を売る人と仕事をすることを両立するのと、小説を書くことと、プログラムを書いて仕事をすることを両立するの、絶対後者のほうが楽。だって小説を書くことと仕事が切り離されてんだから、小説のほうは完全に自分の自由にできる。仕事を理由に自分の創作に口出されるのは、やっぱ無理だなと今では思う。書きたくて書いてんだもん。

さいわいプログラムにはそこまでの思い入れはない。趣味ではぜったいにやらないことも仕事ならやるかという気持ちでやっている。これがゲーム製作だったりするとエゴが出てしまうから、ゲームを仕事にしたりすんのも難しいんだろうなと思っている。

まあ当時の自分からすると現実に負けたみたいな感じの現状ではあるけれど、当時とは時代が変わって、もはや商業にそこまでの権威はないし、やりたいことして飯を食うより、ほどほどの仕事で飯食ってやりたいことできるならそっちのほうがイージーってのは、当時の自分も納得すると思う。当時の自分には自分が社会人として仕事をやっていくヴィジョンがなかったんだよな。わかる。コミュニケーションに難……は今でもあるけど、散々家族からお前には向いてないといわれたけど、ちゃんとプログラマをやれている。なんなら家族でいちばん適性があったよな。設計技師だった父親の遺伝子には感謝してる。おかげでそこそこには生きていられている。

まあ運とめぐり合わせで今まで生きてきたとも思ってるから、これが自分の実力よ、とかは思っちゃいないんだけど。

べつに商業作家にならなくても自分の作品を世に出して人々に届けることはこれからでもぜんぜんできる。自己満足で終わりたくないって思ってた当時の自分の気持ちは今でもわかる。わかるが、個人で活動してても数百人くらいの人には自分の作品を読んでもらったりできるらしい。だったらがんばったら1000人くらい届くんじゃないとかも思う。DLsiteのえっちゲームは1万本売れたら大ヒット。それくらいの目標はそこまで非現実的でもないなと思ってる。

大転換があったわけでもなくシームレスに今の境地にたどり着いたけど、当時の自分とは若干の隔たりを覚える。一回倒れて起き上がったんだから当然ってくらいの隔たりでもある。が、それで折れたかっていうと折れてはなくて、開き直れてよかったね、と思う。もうちょっと早く開き直れてたら楽だったかもしんない。でも今の自分はそこから地続きだから、あるようにしかあらざるだろうとも思う。

まあぼちぼちやっていきましょう。こちらからは以上です。