ダンジョンメーカー

よいゲームだとは思うのだけど、手放しでは褒めがたい。15~20時間くらいはプレイしたと思う。 プレイ体験はおおむねよかった。値段分の価値はある。

よいところ

  • グラフィックが良好
    美麗なドット絵。しかもよく動く。が、日数を重ねるとエフェクトで隠れて何が起きてるのかわからない。それでもユニット一覧や配置を眺めているだけでも楽しい。
  • 戦術・戦略の幅が広い
    使えないスキルというのも実際にはあるものの、スキルの組み合わせ、部屋の配置を考えるのは楽しい。
  • 選択の繰り返しの楽しさ
    このような選択の繰り返しは他のローグライクゲームにもあるけれど、ランダム三枚から一枚選ぶというのは完全なランダムよりも優れたアイデアだと思う。考える余地があるのは楽しい。自分の考えを反映できることが楽しい。

よくないところ

  • 時間がかかりすぎるのでリプレイ性が低い
    一プレイの時間が長いが、そのわりに得られるリターンは少ない。
    たとえば100日目指してプレイして90日そこらで死ぬことが続くとかなりつらいが、これはまだ転生経験値による魔石がもらいやすい頃なのでそれほどつらくない。
    200日到達で100日越えて死ぬのを繰り返すのはけっこうしんどい。100日到達までにけっこう時間かかる。でも死ぬと無。200日目指す頃だと、転生経験値で魔石がぜんぜんもらえなくなってきてるので。
    モンスター引き継ぎが早い段階で手に入っていれば、スキルを厳選したりとかの楽しみもあるんだけど。
    死からフィードバックを得て次のプレイに反映させるにせよ、フィードバックループに時間がかかりすぎる。
    戦闘4倍速とか8倍速とかできるようにしてほしい。

  • 魔石ガチャによってレベルデザインが無になっている
    魔石ガチャの結果は悪いときは悪いし悪い結果が続くと悪い。
    実績によって得られるリターンを固定化するほうがレベルデザインとして優れている。
    たとえば100日目到達で新魔王追加とか。新しい魔王が使えるようになるなら100日目指そう、ってなるが、今だと最初にもらえる転生経験値報酬の魔石で一発で魔王を引くこともあれば、そうでないこともある。
    プレイヤーに選ばせるべきでもない。プレイヤーはその有用性を正しく判断できないので。
    もちろん最初の10回くらいでモンスター引き継ぎがまったく出ないとかもあるし、ぼくは最初にプレイしたとき15回の魔石ガチャで一度もモンスター引き継ぎも部屋引き継ぎも出なかった。そういうこともある。
    ここは課金要素でどうにかなるところではあるのだが、課金要素を開放したところで、やはりレベルデザインはそこにない。プレイヤーの習熟に合わせてあたらしい要素がアンロックされていくという難易度と自由度の曲線はそこに存在していない。

  • 実績解除後のエンドコンテンツがない
    このゲームひととおりの実績を解除しても魔石ガチャ70回分にはならない。魔石ガチャで得られる140個の要素のうち70個を開放すればゲームに必要な要素はひととおり揃うようにできているらしいが、転生経験値の報酬とあわせて70回分の魔石貯まるんだろうか。たぶん貯まるんだと思うが、最後のひとつがあこや貝だったりするとつらそうだなという気がする。おそらくハボリムのペトロクラウドみたいなものなので、なしで難易度10の340日到達するほうが楽しそうな気もする。
    ひととおりの要素が揃ったところで新戦術を開拓する楽しみとかはあるんだけど、それが本来は難易度10の340日到達とかであるべきなんじゃないのか、と思っている。クリア後の裏ダンジョンで最強武器が手に入ったときの、この武器何に使うねん感というか……。
    もっともぼくはまだ100日そこそこしか行けてないので、まだやることはたくさんあるのだが。

  • プレイが単調
    同じBGMを聞いているのはわりと厳しい。これで飽きのこないBGMならよかったんだけど、個人的には気にいるほどでもなかった。悪くはないけど、ふつうのBGMだと思う。
    日数重ねたらBGMが変わったりしたほうが体験がよい。100日越えた時点でBGMが変わるとか。
    同じ画面を見ることに対してはそんなに抵抗はない。同じBGMを聞き続けるのはくるしい。

  • UI が悪い
    権能誤タップしすぎる。権能に限らないが全体的にタップ領域について改善の余地がある。
    戦闘中にスクロールするときにスライドでスクロールするんだけどタップで権能1が発動する。やめろ。魔王の部屋が見たいだけだ。
    あとこれは iOS 固有の問題の気もするが、バックグラウンドに移行するときにタップ判定が残っているのか何なのか、バックグラウンドからの復帰時にその日のカードが勝手に選ばれることがある。

この値段でこれだけ遊べたら充分だとは思うのだが、10時間そこらで実績100%にしてお腹いっぱいになるまで遊べる箱庭えくすぷろーらもあのほうが時間のない社会人にはやさしいな、ということを箱庭えくすぷろーらもあをやりながら思った。モンスターのドット絵がぬるぬる動くところも見られるし。

文章を読めない人

ほんとに増えてるのか?

  • むかしからいたと思うし、むかしは単に気付いてなかったんじゃないのか。
  • 誰だってうっかりすることはあるし、目が滑って読みこぼして的はずれな指摘をすることはあるんじゃないのか。
  • ツイッターのような短い文章では文意を一意に定めることがむずかしいこともあり、誤読してるケースあるんじゃないのか。

ぼく個人も、対面での会話でぼくが言っていることが相手に伝わらなくて、「こいつ変なこと言ってるな」という顔をされた経験がけっこうある。これは相手からしてみるとぼくがその場のテーマを読み違えてるように見えるし、でもぼくとしては、ぼくは場のテーマを理解した上で、相手に伝えるのがうまくいかなかったと捉える。

もちろん、文章から単語を拾っただけで適当にあたりをつけて文意を把握する、ということを日常的にやっている人もいるだろうし、そういう人について、「どうも文章を読めない人がいるらしいということが最近わかってきた」という話はできる。研究者の調べで中高生の国語の試験で思ったより文章読めてないっぽいぞ、という報告が話題に上ったのも、あくまで「わかってきた」という話であって、「増えてきた」という類の話ではなかったように思う。

むかしはいなかったかどうかはもうわからない。いたとは思う。思うという前提でいっても、どれくらいいたのかはさっぱりわからない。だから増えてるかもしれないし、減ってるかもしれない。割合はともかくとしても、絶対数は減ってるんじゃないかという気もする。

まあ実際ツイッターのようなツールは文章の読み方や捉え方がほかのメッセージングツールや電子メディアのテキストを読むときとは異なってるような気はして、そのような読み方においてのエラーが目立つようになってきたのは事実だし、増えてるようには見える。それでもイコール文章を読めない人が増えてるってのはちょっと短絡的にすぎる。

そういえば、この件について、いわゆる「クソリプ」の中には、相手の文意を正しく捉えているけれど、相手に自分の意図をうまく伝えられない、「文章を書けない人」タイプもいるんじゃないのか、っていう考察があった。

これはなるほど目からうろこというか、確かに言葉足らずになってしまって相手に誤解をあたえるような文章を書きがちな人というのはいる。2ch の頃からそういうケースはあって、あるスレで言ってることがわからんレスがついて、なんじゃこいつ、ってなってる中でこうなんじゃない?って誰かが言葉を補う形で文意を推測して、他の人はエスパーかよ、ってなるんだけど、レス主が出てきて実は本当にそうだった、みたいな。

まあなのでなんでもかんでも早急に結論出さないで、こういう側面もあるんちゃうかっていうのは心に留めておきたい、何事においても。

インスタ映え

にかぎったことではないのですが、便利な言葉が出てくると、便利な言葉を使いがちになる。

インスタ映えの話だと、たとえば凝った見た目の盛り付けをした食べ物は、確かにインスタ映えするのだけど、インスタ映えという言葉がない頃には、食べ物をおいしそうに見せるための工夫だったり、遊び心だったり、さまざまな意図でそのような盛り付けをしていたし、それは今でもそうだろうと思います。

SNS ウケを意識して見た目を凝りすぎること行き過ぎではないかという話はわかる。わかるけど、じゃあって言ってなんでもかんでもインスタ映えとか言うのもそれはそれでどうなんだ。

カフェオレを二層にすること、どうせ混ぜて飲むじゃんっていう話、それはそうなんだけど、そうするとたとえばラテアートにしたって飲んだらどんなに凝った絵でもいずれ壊れてしまうわけだし、飲み物を多層にする話だとカクテルなんかは特にそのようにして見た目で客を楽しませるドリンクがいくつもあるんだけど、それは飲食本来の楽しみからそんなに外れていることなんだろうか。

混ぜてしまえば一緒という話なら、カレーライスをカレーとライスとをわけて盛り付けること、そんなに意味がないことだろうか。まあこれはもちろんカレーソースとライスの配分をコントロールする意味があるからちょっと話は変わってくると思うのだけど。

重ねて書くけれども、行き過ぎた盛り付けがあるのは事実なんだけども、なんでもかんでもインスタ映えとか言ってしまうと、行き過ぎた盛り付けと、見た目で食を味わう行為すべて一緒くたにされてしまうんじゃないですか。どこまでが行き過ぎでどこからが食の楽しみなのかって、そんな線引きはできないと思うけど、安易に線引きできないからこそどのような言葉を使うべきか考える必要があって、わかりやすい言葉に頼らないように気をつけていきたいですねという話。

侵略的でないこと

このブログはここ最近攻撃的な記事が多いことは自覚しているのだけど、あくまで自己防衛的というか、攻撃的な考えに対するカウンターとして生じていると思っていて、まあだから攻撃的であってもよいかというとそうではないとは思うんだけど、それはそれとして、侵略的でないようにということは心がけているつもりでいる。

侵略的でないようにしようと思ってもなかなかむずかしく、他者の領域を侵犯することは容易に生じがちだから、侵略的であるかもしれないことを自覚することがまず大事なことなんじゃないかなということを思っている。

よいことよりは悪いことのほうが他者の領域を侵しがちだと思うんだけど、これは特に根拠がない。よいことも他者の領域を侵すことはままある。こっちのほうが正しいんだとか。そういうもののほうがかえって厄介だったりもする。信仰は個人のものに留めるべきである。

悪いこと……あれはよくなかった、あれはだめだった、という表明は、あれはよかった、という表明に比べて、かえしのついた針のように、刺さってなかなか抜けない、ということになりやすい気がする。

印象として、他人があれがよかったという話はだいたい信用されなくて、捨て置かれることが多くて、逆に他人があれがよくなかったという話はたびたび共有される。印象とはいえ、実感としてそういう傾向を利用した戦略というのは現実に存在しているし、そんなに間違った認識でもないように思う。

負の感情ほど共有されやすい……というわけではなくて、単に感情値が振れているほうが共感を得やすいのであって、極端に喜ばしい話なんかも割と共有される。
でもこの極端に喜ばしい話にしたって侵略的だよなということを思っている。

ひょっとすると、あれなのかな……そのような情報に塗りつぶされることをして侵略的だと感じているのかもしれない。

それは別に同調圧がとかっていう話ではなくて、いやでも目に入ってきてしまう状況っていうのは、なんというか毒である。

パーソナライズされた度の強すぎない感情の共有みたいなものが今後重要なテーマになっていくような気がしている。

特に結論めいたことをもって書いているわけではないのでこのへんでこの記事を締めるけど、侵略的であることについては今後も考えていきたい。

「いいから黙って手を動かせ」なんて大きなお世話すぎる

何も言わずに実践した人間は偉いかもしれないが、何も実践せずに何かを言うことは偉くはなくとも悪いことでもない。

めんどくさい話題について考察することが時間の無駄だとは思わない。いつだってまずいのは自分の出した結論を正しいものとして他者に押し付けてしまうことで、自分の意見を表明するくらいのことは別に許されていいだろう。

こういうめんどくさい話題について考察してるのを見るだけでめんどくさいいいから黙って手を動かせっていう人の気持ちはわからないでもないんだけど、他人の思考や行動について指図する権利なんて誰にもないですね。

無知の知という思考停止

もちろんよくわかってないことをわかったつもりでいることはとても危険なのは言うまでもないのだけど、わかってないことを自覚できないことについてわかったような気になってしまうことを回避するのはとても難しい。

けれども、それが難しいからといって、「わからないほうに倒しておけばよい」という結論もまた危険だと思っている。それって、わからないことをわからないままにすることと何が違うんだろうか。

わからないことがあったとして、自分の中でどこまでわかってどこからわからないのか自覚することは重要で、自分が今なにがわかっていなくてその先の理解が及ばないのか理解することが無知の知なんじゃないかと思っている。

知らない方に倒しておくほうが賢いと思っているのならそれは無知の愚なんじゃないのって思うのだ。

じゃあ実際みんなどうしたら購買意欲をそそられるんだ

もう旬の話題ではないし蒸し返すのもどうなんだという感じではあるんだけど、作家自身がコンテンツ力を高めなければこの先のプロモーションはうまくいかないだろう的なことをフリーランスの編集者がツイートして物議を醸した件についてなんだけど、一読者からすれば「信頼性のない作家がおもしろコンテンツになっても信頼性がうまれるわけではない」というのが正直なところです。
そして「おもしろコンテンツが必ずしもおもしろ作品を生み出すわけではない」ということをわれわれ読者はよく知っています。

ずっとこのことについて的確な言葉があるような気がしてたんですけど、「ウィンザー効果」だった。
ひらたくいうと「人は本人よりも第三者の意見をより信頼する」という説で、まあ往々にしてそうだと思います。ネット時代の口コミ戦略みたいなのも数年前にはわりと議論されていたと思います。数年前はっていうのは、これネットではうまくいかなかったってことですね。ステマ、要はサクラが横行してしまったので、信頼性がなくなってしまったので。

じゃあステマじゃなくてダイマならいいのかっていうと、ダイマはけっきょく第三者の意見ではないじゃないですか。だからこれも同じように信頼性が乏しいわけです。キュレーションメディアがうまくいかなかったのも同じ理由だし、ファミ通が通り過ぎた後ですよ。

結局 Amazon レビューみたいな第三者による否定的(場合によっては攻撃的)なネガティブレビューばかりが機能して、売上を損ねる方向にだけ信頼されるみたいなことになってるんじゃないですか。
Amazon にかぎらないですけどキャズム越えないと否定的なレビューが肯定的なレビューを上回ることほとんどないですし、数少ない肯定的なレビューはステマの可能性を否定できないので、結局ユーザはそれを信頼することができない。

トラストレスがそこのブレイクスルーになってほしいとは思うものの、トラストレスが銀の弾丸足りえることもないだろうなということは感じていて、しかも現状そういうものがすでにあるわけじゃないから、今なにかどうにかなってほしいということについての助けにはまったくならない。

今目下なにがどうなってほしいかというと、まず無差別RTをやめろ。義理RTとか祝儀RTとかもうやめろ。露出を増やせば購買機会が増える。これは正しいけれども、露出を増やしたことによってスパム化してしまうと機能しなくなる。賢いユーザほど離脱する。

一言二言でいいから機械的ではなく人間が意味あってその情報を人に届けようとしていることを示せ。意味を伝えろ。意味を伝える価値があることを伝えろ。情報を厳選しろ。環境に特化しろ。

っていうことを思うんだけど、ぼくがこれを意識してなにかしたところでほとんどリーチした試しがない。
面白そうな作品を面白そうに伝える芸人が必要なんだけど、それがキュレーターであり、キュレーターがちゃんと機能したら今はもうちょっとよかったのかな……とか思うんだけど、でもまあそもそも十年前とかだともうちょっと口コミ機能してたよねとも思う。

いまもう本当にあたらしいコンテンツを開拓しようっていうユーザ減ったと思う。すでに価値があるコンテンツを受け取る方向になってると思う。いまあたらしいものが売れないのはそれに尽きると感じている。