けんえん

敬遠と倦厭と嫌厭はそれぞれ全く違う語なんですが、敬遠と書くところを倦厭や嫌厭と書いていることがまあまああります。

じゃあ、意図して倦厭や嫌厭を使うのはよいかというと、まあ、あえて使うほどの語ではないような気もしていて、たとえば、倦厭は、うんざりする、あるいは辟易するなどでほぼ置き換えられます。嫌厭も、おおよそ嫌悪でよいでしょう。

厄介なのは、この倦厭や嫌厭が、「嫌悪を表明しながら遠ざける」のようなニュアンスで使われていることです。このケースはうんざりしているわけでもないし、単に嫌悪で置き換えられるものでもない。敬遠のように、表面上は嫌悪感を表明しないような遠ざけ方とも違います。

まあでも、それなら単に遠ざけるでよかったりはするんです。一番フラットに使える。でもなんとなく漢語の硬さがほしいときには物足りない。敬遠とはややニュアンスの違う遠ざける語がほしい。

ありますよね。

たとえば、排斥。疎外。忌避。弾指(たんじ)、なんていうのもあり、これは爪弾きにすることです。シチュエーションによって使い分けができる。少なくとも、毎回倦厭や嫌厭と書くよりは、細やかな心情を表現できると思います。

こうなってくると倦厭、嫌厭を使う意義っていうのは、実際ほとんどなかろうもんでしょう、と思います。わたしは使うことをためらってしまう。

わからないでもないんですよね。日本語では言葉は字ではなくまず音に立ちます。けんえんという音が使いたい。でもそこで安易に音に引きずられることなく、言葉を使い分けてこそ文を書くということだろうと思います。

こちらからは以上です。