「インプット」と、相対的な価値観

自分の好きなものは、自分が好きだと思うものをたくさん並べたときに可視化される。自分が好きだと思うものという概念はなんらか形を伴わないと並べることはむずかしく、気付くことさえできない。具象化するための器として、たとえば食べ物だったら料理だったり食材だったり、音楽なら楽曲だったり楽器だったり、小説や漫画なら作品や作者の個性によって、こういう分類のものが好きな傾向があるな、ということを自覚していく。無から自覚するのは極めて難しい。

価値観はそれ自体は内在するものだったり対的なものだったりというふうに考えがちだが、実際には外部のもので相対化しないと認識することは難しい。

インプットの目的はいろいろあると思うが、自身の価値観をあぶり出すためにはインプットが必要になってくる。漠然と好きなものと嫌いなものがある、とかですらなく、何が好きか嫌いかということさえわからないということがよくある。隠れた好みを発見した経験がある人も少なくないと思う。

いわゆるオタクは自分の好きなものごとについて早口になりがち、というやつがあるんだけど、これはオタクがインプットを平均よりも多く行っていることに少なからず関係していると考えている。インプットがたくさんある人間は、自分の好みについて自覚的になる。自分の好みを知る、という理由でインプットをすることは、なにかしらの作品作りに限られた話ではなく、日々すごしていく上でもたぶん重要だろうと思う。

感覚的なことは体験しないと言語化できないということもおおいにあり、ワニやカエルの肉の味を、たいてい鶏のような味と表現するのも、ふつうは鶏しか食べたことがないからで、日常的にワニを食べて鶏を食べない人間は、鶏を食べてワニのような味がする、と表現するかもしれない。

特に結論があるわけではないんだけどそういうことを考えたので忘れないうちに書き留めておく。

こちらからは以上です。