イベント後記

コミティア131おつかれさまでした。来てくださった方ありがとうございます。

イベントに自分で参加するのはとても久しぶりで、コミティアへの参加はコミティア100*1以来、自分の新刊としては2010年以来とかになるんじゃないかと思います。

お金の話に抵抗がある方もいるかとは思うんですけど、詳細でない程度の収支の報告をすると、とてもありがたいことに印刷代分くらいの売上は出ていて、諸経費分でちょっと赤字、くらいの感じになっています。
これから先の売上を参考資料の購入に充てられるくらいの感じになっているので、今後の活動がやりやすくなったなーと思っています。 今回本をつくるに当たって課題として感じたのが、音声学の専門書とかちゃんと読んだことがなくて、正確な情報を出典つきで記載するのが大変っていうところだったので、それがネックになって書けていないこととかがあります。ウェブは後から直せるので多少そのあたりが雑になってもカバーできるんですが、紙の本はそれが全てなので、そのあたりはしっかり責任感を持ってやらないといけないと思っています。今後は売上を参考資料の購入に当てて、より充実したものを作っていければなーという感じです。

で、今後の予定なんですけど、とりあえず次回のコミティアに乗り込むほどの時間的余裕がないのもあり、次のオフライン活動は秋以降になると思います。

Web での連載はいつでもできるので、記事が書き上がり次第、名前の作り方の続きをやっていきます。本のあとがきにはちょっと書いたんですが、次は時代とか地域による言語の違いにフォーカスした名前の作り方をやる予定です。あとは音声学、音韻論の入門的な話と、音象徴と名前づくりの話とかもやりたい。これでたぶん1冊くらいのボリュームになると思います。よく練って夏くらいまでに全部公開できたらいいなと考えています。

ゲーム製作はサークルとしては幻葬再演・急を今年秋に向けて作っているところです。今年の秋……東方の同人誌即売会……あとはわかるな? という感じなので、やっていきます。

まぼろし国の食卓よりという作品を一昨年から書いているのですが、まる二年もあけてしまい、もう書かないんじゃないかという感じもあったしそういうことを何回か書いてきたんですが、なんか書いたら書けたので、書いて書けるうちは書いていこうと思っています。たぶんあと10話くらいで一章が完結するので、年内には一章分くらいは終わると思っています。終わらなかったら……

というわけで今年も1ヶ月すぎましたがまだまだやっていきます。これからもよろしくおねがいします。

*1:8年前です

コミティアに「フィクションのための名前の作り方」本を出します

2月9日(日)東京ビッグサイト西ホールで開催されるコミティア131に出ます。

スペースは Q18a、サークル名は Alias over the Azure です。Lunatlazur 名義ではなくて個人名義ですけど、表紙はいつもどおりゆえっちにお願いしたので、いつもどおりです。

出すのはこれを本にしたやつです。

medium.com

書いたときからちょっと時間が経っているので書き直さないといけない部分があったり、あらためて検証したら間違ったこと書いてあるところあったりしたので直したりしています。直したものは Web 公開分にも反映するので、ほぼ Web に上がっているものをそのまま本にしたやつ、という感じですが、本は Web と違ってリンク先を簡単には見に行けないので、そのあたりのフォローが入っています。そういうわけで本のほうが総合的には読みやすいかもしれません。
あと、Web 版は Medium というサイトの性質上ちょっと読み込みが重いとか、まとめて読むのにはあまり適していないところがあるので、そういう人も紙の本がおすすめです。

表紙はこうなってます。

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表紙

この表紙がついてくるのは紙の本だけなので、この表紙がほしかったら紙の本を買いましょう。
今回のロゴは自分で作ってみたやつです。作るの大変だったけど、今後ゲーム作るときにタイトルロゴとかに活かせたらいいなと思う。

本文はもう Web 公開されてるのを見ればわかるようにほとんどできてます。楽勝とか思ってたら死ぬほど直しがあったので死にました。直し終わったので生き返ったんですが、図や表を挿入するのが死ぬほど大変なのでまた死んでいます。まだ本文デザインも裏表紙もあとがきも残ってるので、これからもうちょっと死にます。

当日は蘇生してるのでよろしくお願いします。

38

これはこのブログの年間最大記事数なんだけど(わたしの歳の話はしてないです)、最初に38記事書いた年は、12月にひとりアドベントカレンダーをやって集中的に記事書いて38記事だったのが、昨年は毎月ちょっとずつ書いて38記事。もちろん記事の粒度に差はあるものの、本当は集中せずにこれくらいの記事書いていくのがいいんちゃうかということを常々思っていたので、ひとまずはある月に集中的に書いた年と変わらないくらいにはコンスタントに記事を書けた年だったので、よかったねと思っている。

ただ、38記事っていうのはつまり月平均3記事なので、まったくもって足りない。かろうじて月記よりは書いているけれど、週記未満である。

というわけで今年はせめて週記くらいは書けるようになりたいと思ったんだけど、なんと1月はもう2週目が終わろうとしてるんですな。すでに失敗している……みたいな、こういうところで変に完璧主義をさらすとまったく進歩がないので、まあ月平均で4記事書くのを目標にしたらいいんじゃないですかね、くらいの気持ちでやるのが正しい。だんいずべたーざんぱーふぇくと、べいべ。

昨年は一応サークルとしては新作ゲームを発表できたし、個人としても、ファンタジーの名前の作り方の連載をしたりして、それなりに成果はある年だったんだけど、十数年前には300ページを超える文庫本作ったりしてたことを考えると、もうちょっとやっていきたいなという気持ちがある。ひとまずは2月にファンタジーの名前の作り方の紙の本を出すことが決まっているのでそのための組版とかもろもろの作業をやっていく。

その後は一本新作ゲーム作りたいですね。サークルとしては幻葬再演・急を作ってこれでシリーズ完結予定なので、これもまあ秋までにしっかりやりましょう。それとは別に、本当に新作を一本。東方の二次創作ゲームも作りたいし、オリジナルも作りたいんだけど、まあどっちか一本作るのをまずは目標にしましょう。欲張るとたいていどっちも達成できない。地道にやりましょう。

今年もよろしくお願いします。

けんえん

敬遠と倦厭と嫌厭はそれぞれ全く違う語なんですが、敬遠と書くところを倦厭や嫌厭と書いていることがまあまああります。

じゃあ、意図して倦厭や嫌厭を使うのはよいかというと、まあ、あえて使うほどの語ではないような気もしていて、たとえば、倦厭は、うんざりする、あるいは辟易するなどでほぼ置き換えられます。嫌厭も、おおよそ嫌悪でよいでしょう。

厄介なのは、この倦厭や嫌厭が、「嫌悪を表明しながら遠ざける」のようなニュアンスで使われていることです。このケースはうんざりしているわけでもないし、単に嫌悪で置き換えられるものでもない。敬遠のように、表面上は嫌悪感を表明しないような遠ざけ方とも違います。

まあでも、それなら単に遠ざけるでよかったりはするんです。一番フラットに使える。でもなんとなく漢語の硬さがほしいときには物足りない。敬遠とはややニュアンスの違う遠ざける語がほしい。

ありますよね。

たとえば、排斥。疎外。忌避。弾指(たんじ)、なんていうのもあり、これは爪弾きにすることです。シチュエーションによって使い分けができる。少なくとも、毎回倦厭や嫌厭と書くよりは、細やかな心情を表現できると思います。

こうなってくると倦厭、嫌厭を使う意義っていうのは、実際ほとんどなかろうもんでしょう、と思います。わたしは使うことをためらってしまう。

わからないでもないんですよね。日本語では言葉は字ではなくまず音に立ちます。けんえんという音が使いたい。でもそこで安易に音に引きずられることなく、言葉を使い分けてこそ文を書くということだろうと思います。

こちらからは以上です。

Dawn of Man 感想

store.steampowered.com

見た目は Banished の原始時代版という感じのシミュレーションゲーム。野生動物や襲撃者が襲ってくるので、プレイフィールとしては Rim World のほうが近い。特筆すべき点は技術ツリーが先史文明、それも更新世の後期からはじまる点で、旧石器の文明と、ケブカサイ、ホラアナライオン、ギガンテウスオオツノジカ、それからマンモスといった太古の動物が共存する環境を体験できる。マンモスを狩って肉、毛皮を得る狩猟採集生活からはじまるのだ。技術をアンロックして時代が進むと、これらの動物はやがて絶滅する。

難易度ノーマルでは、敵の技術レベルはプレイヤーと同じになっているので、のんびり発展させていくことができる。序盤は技術の発展も遅く、何の驚異もないとちょっと退屈かもしれないが、このゲームではほどほどに野生動物や襲撃者がやってくるし、ほどほどに犠牲者も出る。犠牲者が出てもすぐあたらしい入植者が来るので、それほどの緊張感はないが、張り合いがないというほどでもない。高難易度だとどうなのかはまだプレイしていないのでわからないんだけど、敵がどんどん技術を発展させていくらしいので、そっちのほうがやりごたえがあるかもしれない。

技術は、累積の建築数、資源獲得数、狩猟数などで知識ポイントが貯まって、このポイントを支払って技術を獲得していく。が、知識ポイントの貯まりは序盤は特に遅く、ちょっとテンポが悪いように感じる。逆に時代が進むと一気に知識ポイントが貯まっていくし必要な技術の数も多くないので急激に時代が進んでいく。まあこのゲームの肝は石器時代までにあるような気はするので、銅器を作れるようになってから鉄器まではこれくらいのスピード感でもいいのかもしれない。

時代が進むと前述の通り太古の動物たちは姿を消すし、ゲーム開始時の牧歌的な雰囲気は薄れてしまうので、ちょっと物寂しい感じがするが、それも人類史という感じで、そういう体験ができる貴重なゲームだと思う。

不満はいくつかあり、動物を飼いならそうにもオスとメスの幼体が揃って見つからないことがけっこうあり、とりあえず一方だけ捕まえてきても、次の年にもう片方の幼体を捕まえたところで、繁殖タイミングを逃しがち。成体の期間が短すぎることない?という感じなんだけど、長かったら長いで今度は繁殖しすぎて家畜数が爆発する可能性があるので、しょうがないかもしれない。あと今いる家畜の性別を把握しにくいのもなんとかしてほしい。ある程度増えると関係なくなるんだけど。

また、狩猟や巨石採掘などで遠征するときに保存食も水も持たずに出かけるのは何なの、というのがある。遠出してる間なんも食べないし何も飲まないので飢えや乾きで死ぬ。遠出するなということなのはわからないでもないんだけど、集落の付近に都合よく動物が集まってきてもそれはおかしいし、狩りのために遠征するほうが自然だし、このへん、資源管理とうまく両立できてほしい。

襲撃者はアホなので見張り台があったら途中に建物があっても無視してそっちを壊しに行く。お前らはなんなんだ。人間は死んでも替えがきくけど、貴重な資源を費やして建てた建物が壊されるとリカバリーに苦労する。だからこそ建物を守るために工夫しがいが出てくると思うんだけど、現状だと建物ノーガードで人の壁でもよかったりはする。高難易度だと追加の入植者があんまり来なかったりするのかもしれないから、高難度やってからこのへん見極めたいところ。

マップは広いんだけど、この広さを活かせるゲームではないような……最初に定住地ありかなしか選べるんだけど、定住地なしでスタートした場合でも、どこに入植するか決めるだけで、さっき書いたとおり遠征しないほうがいいゲームという感じになってしまっているので、マップに対してこじんまりした遊びになりがち。もうちょっと広々遊べるといいなあと思う。

公式では日本語化されていなくて、ワークショップの日本語化を導入すると日本語にできる……が、ワークショップの日本語化はやや訳がぎこちなく、また、ゲームプレイの言語依存度はそもそもぜんぜん高くないので、英語のままプレイしたほうがわかりやすいかもしれない。

価格は2600円くらい。プレイボリュームはしっかりあるので、値段分はゆうに遊べる。この手のゲームが好きな人にはオススメ。

異世界の食事の話

を書きたくて、まぼ食は異世界であることを表現するために転生ものの体裁を取ったんだけど、向こうの世界の常識を主人公に身に着けさせるために主人公を現地人と現代日本人のハイブリッドにするという方法でやった。それ自体は悪くない試みだったんだけど、そもそも転生ものじゃないほうがテーマを描きやすいな?ということに最近気づいた。

止まってるのはテーマを描きにくいからではなくて、テーマを描こうとしていたのに別の方向に舵を切ってしまって収拾がつかなくなってるからで、これは書いていた時期にコンテストがあり、コンテストに合わせようとしたせいでもあるので、そういうことを度外視して、最初に書こうとしていたものを貫徹しないとこうなる、という感じ。

けっきょくコンテストにはどうやっても間に合わないことに気付いたから、コンテストに出すことも断念したし、いいところがない。

それはさておいて、ちゃんと続けていたらとりあえず一章くらいは書ききれただろうなとは思っているんだけど、その先を目指してちゃんと書けたかというと、ちょっと難しかったかもしれないなということを思う。描こうとしていたテーマが実は複数あったんだけどこれもよくない、というか描きたいことを絞って書こうと思って食事をテーマにしたはずなのに、そこを貫徹できていない。これもよくなかった。

なので、そのへんを見直した上で、あらためてやっていこうということを思っていて、そのためには、実は転生者よりも現地人目線のほうが、ちゃんとその世界のことを書けるんちゃう?という感じに、最近なってきた。

孤独のグルメは、日本人が日本の飯屋でひとりめしを食う、それだけのことで、ちゃんと面白い。まあ取り扱うめしはけっこう多国籍に渡ってはいるんだけど、それも含めて日本だと思う。

そう、そういうことなのだ。異世界にだって異世界なりの多国籍がある。それを異世界に転生した現代日本人目線でやるとなると、ぜんぶ「その世界に存在しない」日本食との比較対象になってしまう。そうじゃなくて、すべて対等に並行して存在する異世界のめしを、描きたい。

と思ったので、異世界の人間が、その世界のめしについてなんやかんやする話を、たぶん書くと思います。

こちらからは以上です。

「ゲームデザインにおける高難度と理不尽の違い」という言葉遊びについて

先に書いてしまうけれど、これはただの言葉遊びで、ゲームデザイン論のレベルに達してないよねと思っている。


理不尽だけど面白いゲームというのは実際にはあり、たとえば初見殺しであったり、ミスに対して悪意あるペナルティを課したりであったりは、理不尽な要素だとは思うが、その要素が存在するから詰まらない、とはならない。で、そういう要素を持つけど面白いゲームを許容するために「一見理不尽に見えるけど緻密に計算されていてちゃんとクリアできるので理不尽ではない」みたいな理屈をこねくり回し始めると、もう何の話をしてたんだっけとなりませんか?

つまりこれは自分が好きな難しいゲームはいい難しいゲームで自分が嫌いな難しいゲームは悪い難しいゲームというのを、高難度と理不尽という言葉に置き換えているだけのことで、なんのことはない、単に言葉を弄しているにすぎない。

シチュエーションによっては、プレイヤーは理不尽さを与えられてもよいと感じている。理不尽だからこそ面白いというシチュエーションもある。ホラーゲームの「驚かせ」要素を誰も理不尽とは言わない。同じことをホラーゲーム以外のジャンルでやれば理不尽と言われかねないように思うが、ホラーゲームでは許される、というより、むしろプレイヤーは驚かされることを望んですらいる。

プレイヤーはゲームに裏切られることを嫌うのであって、理不尽さそれ自体を嫌っているわけではない。プレイヤーの同意なしに与えられる理不尽さに対してストレスを感じるのであって、ある種の理不尽が存在することを同意した上では、それらの理不尽は許容される。

たとえば、初見殺しゲームについていえば、初見殺しされることについてプレイヤーが同意している。だからプレイヤーが意図しない場面で意図しない殺し方をされてもそれは許容できる。

ローグライクゲームでは、死ぬと進捗の大半(場合によっては全て)を破棄される。しかしプレイヤーがこれを理不尽だと非難することはない。死んだら無に帰すことが楽しみの一部になっている。

だから「理不尽」とかいう言葉をもって難しさの良し悪しを峻別する行為は、ただの言葉遊びに過ぎない。悪い難しさを理不尽と呼ぶ行為では、許容可能な理不尽さを決して説明できない。


プレイヤーにとってストレスとなる要素は排除しよう、という流れがあって、それ自体は一考する余地がある。ただ、あらゆるストレスを排除した先にあるもの、それゲームか?って個人的には思っている。

ゲームは、というでかい主語を使うとちょっと面倒だが、少なくとも「障害を乗り越えて目標を達成する遊び」はゲームである。ストレスを排除すると、究極、この類のゲームは失われる。それは望ましいことではないよねと思う。

自分にとって好ましい難しさと好ましくない難しさを「理不尽」なる言葉で峻別してわかった気になるのはやめて、もう一歩踏み込んだ議論をしたほうがいいんじゃないの、と思っている。

こちらからは以上です。